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これまでの仕事の中で自分の心も穏やかになれたのは、幼児との触れ合いだったと思う。
それは、幼児教室の教室開発職で入社した企業でのことだった。学習塾の新規教室開拓の経験が活かせると思って入社したところ、「君はまだ若いから現場を知ることも大切だ」と言われ、不得手な営業職(要は教室への入会を勧めること)に回った。

だがしかし、私の認識が甘くて、営業に全力を傾注していなかった面があった。「これは研修の一環であるから、私が入会させた方もチームの先輩や後輩の実績にしてもいいんだ」なんて、勝手に思い込んでいた。
また、男性であることや眼鏡をかけていること、スーツを着ていることもあり、小さな子どもたちは人見知りして、なかなか私にはなついてはくれなかった。だから当然営業ノルマも未達成の時期が続いて、当時の上司からも叱咤激励も受けた。

能天気なやっちゃな。

だがしかし、会社はどうやらそうは見ていなかったようで、なかなか数が上がらないことにイライラしていたらしい。それを聞いてからは……本気になった。

そして、勿論傍で親身に指導して下さった先輩方の御尽力のおかげで、小さな子どもたちと接するコツも少しづつ体得してきたし、スーツだろうが眼鏡だろうが子どもが逃げなく……なっていった。最初は……気が強い3歳の女の子でも遠くで私を見て泣いていた。

出張で日本海に面した、海の幸に恵まれた地に行った。

そこで1人の2歳半くらいの男の子、若干知的体験が不足していた子と出会った。彼が発達に遅れを持っていないことは接していれば分かった。
毎日のように体験コーナーに遊びに来てくれた。私にも容易になついてくれていた。当時彼は満足に一語文も喋ることができなかった。

ところがある日、色玉遊びをする中で、私たちの「じょうず~!!」の声に呼応するように、彼は自らの口から「じょうずー!!」との声を発した。

最初遊びに来たときには、知的体験の不足があって大変だろうと正直思っていたが、やはり子どもの順応力、吸収力、適応能力って素晴らしいんだな。
私たちと一生懸命知的なお遊びをする中で話しことばの獲得の第一歩を踏み出すとは……。

自然と涙がこぼれ出た。

仕事中に泣き出すのはまずいとも思っていたけれど……止まらなかった。

だがしかし、そうは言ってもやはり私の数字をトータルで見れば採算割れの状況はあり、入会数を上げるために様々な努力をするも、その約1年後にあえなく解雇された。

また性懲りもなく学習塾に就職したり、その他色々とやってみたが、なかなか上手くいかなかった。

自分は本当は何をしたいのか、徹底的に考え直してみた。
それこそここの生い立ち日記ではないが、幼児期に至るまで遡ってじっくり再考した。
そこで分かったことは、対人スキルにおいて著しい成長の遅れを抱えたままで大人になってしまったに等しい、そんな私に適していることは……職人的な仕事であると結論付けるに至った。

2冊の本「夢をかなえる一番よい方法」「『これだ!』と思える仕事に出会うには」を参考に、徹底的に演習に取り組み、自己分析した結果だった。

そして、校正と建築模型作製に絞って職探しをした。
そこで出会ったのが、大きな家庭用電化製品のメーカーからの仕事を受注しているカタログ制作会社だった。主に照明のカタログを制作していた。一昨年の夏までの1年間、校正職として働いた。仕事は結構きつかったが、楽しかった。

今でも時折、お洒落なスポットあるいはテレビドラマなどでちょっとカッコいい照明器具、ブラケットやペンダント、あるいはシャンデリアなどを見ると、ときどき注視してしまう。

その後、印刷・制作・出版関係を数社経験するが、いずれも私の希望していた校正業務と異なる部署への配属などがあり、続かずにいた。

Cafeに入ってから入社した、昨年春に勤めていた企業も、一旦在宅勤務に切り替えて、その後またアルバイトに行ったりしたが、また在宅勤務にして、契約解除して……その後は近所に住む友人が日雇い派遣の会社をやっている関係で、そこの手伝いをしながら現在就職活動中。夏から秋にかけて、よく土日や祝日に出かけていたのは、大抵、日雇いバイトだった。

マンションギャラリーの看板持ち、ドリンクやプリンターのメーカーのラウンダー補助、スーパーのミカンや柿の試食又は品出し、イベントのテント設営とか撤去、会議室のテーブルセッティング、などなど。

みんなをだますつもりはなかったんだけど……結局言い出せずに、結果的にそうなってしまった。

……申し訳ない。

結局、なんのかんの言っても、弱みを晒すのが嫌だったし、恐かった。「ええ格好しい」だった。格好というか、外見、形式にこだわって中身や本質に重きを置かないという姿勢、そんな上っ滑りの人生におさらばしたいという自分自身の意志表明でもある。

……大変長い文章の数編に渡って、自分自身の生い立ちのことを書いてきたけど……これで……完結。

長くて読みにくかったと思うし、重い内容のときには不快感を感じた方もおられるかもしれない。にもかかわらず読んで下さった皆さん、コメントを下さった皆さん……感謝!

ときには「これはここに書いていいのだろうか?」と私自身でも思うような描写もあったし、女性読者からすれば恥ずかしくなるようなあるいは理解しがたいような箇所もあったかもしれない。

けれども、普段書いていることからは想像できないような側面も持っていることもお知らせしたいと思ったし、どうやらこれまでの日記内容や書き込みの中では私という人物が間違って理解されている面もあるのではなかろうかと思ったのもこれを書いた動機だった。

私でもときにはおかしなことも考えるし、ふざけた行動も取ったりしたことがあった。たまにはギャグや冗談の1つでも言うだろう。そしてときにはスケベなことも考える。どこにでもいる普通の1人の男性と思って差し支えないだろう。まあ、普通じゃない面も多いのも事実だけど……。

で、確かなことは……年末からこれまでの生い立ち長編日記で書いたことに嘘はないということ(思い違いや勘違いはちょっとはあるかもしれないけれど……)。

年内に全部アップしようとしたんだけど、ちょっと無理があった。

まあ、私の個人情報やら友人知人のそれらがばれないようにも気をつけたけど……うん、多分大丈夫……でしょう。

長々とお付き合いいただいて……おぉきに、ありがとうございました!!



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2008.01.05 震災の頃……
私が赴任したクラスの前担任は病気休暇を取って休職中だった。

クラスの状態については、特に何も聞かされてはいなかった。だからそれほど覚悟もしてもいなかったのだが……相当に荒れたクラス、いわゆる学級崩壊状態だった。それで前担任もヤル気を失くしてしまったようだ。
給食の時間にパンは飛散する、授業45分の間にまともに授業できるのは5分だけ、あとは「ボールを触るな、紙飛行機を飛ばすな、席に就け、立ち歩くな、漫画を読むな、ストーブで半紙を焼くな……。」

この子らをしっかりさせようと思ったら何をしてもいい、そんな思いだった。

ただし手は出すまい、と。

しかしとうとう、あまりに言うことを聞かない子どもたちに対して……またもや手が出てしまった。そのたった一つの過ちで、それまでの努力が水泡に帰したのは言うまでもない。

学年会で「はあ、こんなクラスやと分かってたら来なかったんやけどな……。」何気なく言ったその一言を聞いていた先輩方は「え??なんやそれ??」どうやら、荒れたクラスであることを理解した上で赴任してくれる人を探すよう、PTAでも学校でも学年でも教委には要請していたらしい。それで一気に府教委に対する不信感は強まった。
だがしかし、クラスの実態を正直に打ち明けた上で赴任してくれる人なんていなかったと思う、多分。

まあ、四の五の言っても何一つ始まらない。どこまで立ち直らせることができるか……挑戦してはみたものの、どこまでやってもこれは不可能ではないか、と思い、諦めに似た思いを持った瞬間に緊張の糸もプツンと切れた。

たった半年に満たないが、公教育の教育職を経験してみて、その道は一旦は諦めることになる。というか、もう少し人間的修養が自分には必要との思いで、数年は民間に勤めることを考えた。

しかし教育関連の経験を活用したいとの思いもあり、学習塾や専門学校、その他色々やってはみるが、なかなか首尾よく行かずに転職を繰り返すことになる。

その後、1994年末頃、小さな地震が大阪と兵庫の県境付近、多分猪名川町辺りだったと思うが、頻繁に観測されていた。それが確かクリスマス以降かな、一旦はピタッと止んだ。
そうして、しばらく体感地震もなかったが、……1995年1月17日午前5時46分頃、突然ゴゴゴゴーっという大きな地鳴りが聞こえた。ん?またいつものあれかいな、と思ったらその次の瞬間には激しい揺れが襲った。マッチ箱のような形の建物は倒壊するかと思った。

恐ろしかった。本当に恐ろしかった。

恐怖のあまり、思考力や判断力が停止したのだろう、天井から吊るしている蛍光灯がわっさわっさと揺れるのを私はただ呆然と見詰めていた。

アホやな、さっさと自分の身を守らんかい!!

前年の秋に、本棚の位置を少し入れ替えたおかげで、その棚や書物が倒れこんでくるのは防げたが、もしも模様替えを実行していなかったら……と思うと、なんと偶然なことか、と感じた。

当時未だ携帯電話というものを所持してはいなかったから、慌てて勤務先に電話しようにも全く通じなくなった。ガスと電気はなんとか途絶えることがなかったが、上水道がほどなくして止まった。電話するために公衆電話へ向かったときに見たのは、破裂した水道管から噴水のように出ている水、公衆電話に長い列を作る人々……当時は団地の最上階に住んでおり、下の情報がなかなか入りにくかったのも事実だった。

食器棚も揺れる方向の関係で大きな被害はなく、天井付近の戸棚から一升のヤカンが落下しただけで済んだ。

他、ドライ用の洗剤が棚からこぼれ落ちてカーペットにシミができたくらいで済んだ。
飲用水に困って、最初に徒歩2分の酒屋へ行くと……それどころじゃない、って感じで、床一面に散乱したガラスなどを酒の匂いにむせながらマスターとおかみさんが処理していた。やむなく徒歩5分のスーパーに行くと……あいにく臨時休業。中ではやはり復旧に大わらわ。止むを得ずもう少し足を延ばして、今度は徒歩10分の距離にある珈琲豆の専門店……ここは盲点だった。ミネラルウォーターが売られていた。従業員さんたちはみな徒歩2分程度の所に住んでいたらしく、片付けもおおよそ終了しつつあった。

私の住む北大阪ですら死者が出てしまったが、阪神間から淡路島にかけては周知の通り甚大な被害が出た。後に大阪最南端に住む同僚が言ってたのは、対岸の空が夜になっても真っ赤だったと。
確かにあれは凄まじく燃えていた。ヘリでの映像を見ると、あたかも太平洋戦争時の空襲に遭って、街が壊滅したかのようだった。

この何もかもなくなったに近い神戸の街、震災の被害に遭った街に足繁く通い、被災者の支援のために一人の作家が尽力された。そう、小田実氏だった。昨年8月頃の日記でも書いたが、このときに私の彼に対する認識は大きく変わった。

この震災により人的にも経済的にも大きな被害を受けた関西は、今でも少しはおそらくこの余波が続いているのだろう、景気回復が若干遅い。
そういう意味では震災はまだ終わってはいない。

この年の秋、入退院を繰り返していた母方の祖母が亡くなった。
父方の祖母はとっくに他界しており、私からすれば「おばあちゃん」と呼べる人はこの祖母だけだった。

葬儀に駆けつけた親戚、従兄弟たちと話をするのも本当に久方ぶりだったが、彼ら彼女らの住む瀬戸内海に面した街々でもその震動は相当伝わっていたらしい。電話線が通じてから何回か電話をもらったのだが。

この祖母には子どものときには随分と可愛がってもらった。
帰省すると、ここは海の幸に恵まれたところだったので、ふんだんに瀬戸内の味覚を楽しんだ。赤い卵巣を持った子持ちシャコ、ツナシの酢漬け、ママカリの祭り寿司、焼き穴子、牡蠣フライ、ときには焼きハマグリに活き車海老の塩焼き、……。

近くに潮干狩りのできる海岸もあるので、よくアサリを獲りにいった。十分に砂を吐かせてから貝汁にするんだけれど、それでもときどき碗底に砂が沈む。で、たまにアサリの中に小さなカニとかがいたりする。
メバルの煮付けもよく食卓に上った。あ、そうそう、忘れちゃならないのがイイダコ。小さな蛸の一種なんだけど、卵巣かな、ご飯粒みたいな触感からそう名前がついたんだろう。

幼いときに、杵と臼で餅つきをした。白餅と豆餅と、2種類作ったかな。確かもち米だけよりもうるち米(そこでは「ただ米」と呼んでいた)も混ぜた方が美味しいということで、少しだけ混ぜて作った。

祖母宅の隣に伯父が住んでいて、その伯父がミカン栽培をしていたので、よくミカン狩りにも行ったかな。樹になっているのをもいでその場で食べるとその美味さは格別だった。果汁の鮮烈な味わいに強烈な芳香、ワックスを使っていないから手が粉でピカピカになる心配もなかった。

何だ、食べ物の話しか出てこないぞ!?
こういうのをきっと、食い意地がはっている、って言うんだろな。

あまり帰省しなくなってからも毎年正月明けくらいにはミカンを送ってくれた。庭になっていた柿と、干しエビ、それから豆餅とかも一緒に。
あと、梅漬けも自家製で作っていた。現在スーパーや百貨店で入手できるどの梅漬けよりも確実に美味かった。また麦味噌も作っていたかな。それから梅酒やぶどう酒、いちご酒など、様々な果実酒を作っていたかな。で、ちょくちょく飲んでいた。

おい、子どものころから飲んどったんかい??
それはアカンで!!

珈琲に凝り出してから帰省したときは、近くのスーパーに売っているのが豆ではなく挽いた粉を缶詰にしたものだったので、若干残念だったが、それでも祖母宅で淹れると……大阪で新鮮な豆を挽いて淹れるのよりも数倍美味しい珈琲ができたのには……驚いた。水の力って、本当に凄いなあって思った。

年金生活の合間に、和裁をしていた。しばしば近所の集落の方からも注文があると色々と作っていたらしい。ちなみに妹が成人式に着て行った振袖は祖母の手によるものである。

……色々と祖母には世話になったし、可愛がってももらっていたのに、交通の不便さや忙しさにかまけて墓参もできていない。

たまには行かないとね……。





学生時代に寮生活を送ったことは、今となっては私の中ではプラスに作用していると考えている。
学科や回生を越えた繋がり、サークルも越えた繋がり、様々な価値観を持つ人たちとの触れ合い、夜を徹して歩き通すハイキング、寮の祭り……。

寮で悲しい出来事もあった。
3回から4回になる春休みに、1人の後輩を最近見かけないな、と感じた。
丁度階段を上りきったところにある個室(3~4回生用)が1つ空いていて、本当は駄目なんだけれども、私はしょっちゅうその部屋に洗濯物を干していた。他にも同じような使い方をする者もいたし、物置代わりに使っている者もいた。寮の会議でそれは駄目だということになり、その空き部屋へ立ち入る者はいなくなった。
その出来事の起こった日……外出から帰って来た私が下足室で上履きに履き替えていたら、上の方から物凄い大きな叫び声が聞こえてきた。

「うわあああああ~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!」

誰の声かは明白だったが、彼が一体全体なぜにそのように叫んでいるのか、全く見当はつかなかったものの、ただならぬ事態が起きているのだけは容易に分かった。
喘ぎあえぎ、両肩でハアハアと大きな息をしながら彼が言うには、今すぐに警察と消防を呼んでくれとのこと。そして……見かけなかった後輩が自殺したと知った。
件(くだん)の空き部屋で、後輩が寂しく世を去った。
自分の手で、自らの生を終えた。
発見されたときには既に時遅し、絶命して数日後だった。

私は空き部屋と同じ階に住んでいたのだが、当日の夜はなかなか自分の部屋に帰る気にならず、寮のみんなと一緒に1階の入り口の事務室で深夜まで過ごした。
一旦は自分の部屋に引き上げたが、事件のあった部屋と同じ階にいるのもなんだか寂しくて悲しくて……みんなのいる事務室に戻ってきた。
翌日は……皆でその部屋の前で、そいつの好きだったバイクにつなぎとメットをかぶせて、好きだった長渕の歌を、朝までみんなで飲みながらさんざん歌って聞かせてあげたな。いつもちょっと浮いている私もこのときにはみんなと同じようにしていた。
同じ階にいながら、なんで気づいてやれなかったんだろう。
炊事場もトイレも洗濯機も共用だったから、顔を合わすチャンスは幾度となくあったはず。
今でも長渕の「日めくりの愛」を聞くとそいつを思い出す。


煙草との出会いはアルバイトがきっかけだった。当時宿直のバイトをしていて、シフトを決めるミーティングに行くと先輩方はみんな喫煙者で、煙たくてしょうがなかった。自分も吸うようにしたらそんな感じはなくなるかと思って吸い出したのが煙草との出会いだった。

水泳は好きだったが得意ではなかった。若い女性の水着姿が見られてええなあ、というのではない。それは全くないわけじゃないけど、飽くまで副次的なもので、ただ単に不得意が得意になっていくのが楽しかっただけ。
1回生の夏休みに、大学の必修単位の水泳合宿があった。泳力別に班が編成され、指導教官と体育学科の上回生が指導にあたるというものだった。このときに初めて平泳ぎと横泳ぎができるようになった。
その夏は、平泳ぎの距離を延ばすことに病みつきになった。合宿から帰ってからも大学のプールに足繁く通い、最終的には2kmになった。今はそんなに続かないだろうけれども。

人付き合いは……ちょっと下手で、寮でも学科でもやや浮いてはいた。
講義をサボっても誰も何も言わない気楽さにかまけて、自分のしたいようにしていた。サボるもんだから学友たちとはますます疎遠になっていった。
そんなわけで当然4回生で卒業などできるわけもなく、複数年留年するということで、これまた親に迷惑をかけることになってしまった。
寮はその設立目的からいって、留年している私が住み続けるのは不適切と判断し、4回生終了時点で卒業ならぬ「卒寮」した。それ以降は片道2時間という道程は決して楽ではなかったが、自宅から通学した。。
それまでは学費も親に出してもらって、親からの仕送りを受けて、なおかつアルバイトもして生活費を捻出してはいたが、大学付近に下宿すると出費もかさむというのも自宅に帰った1つの理由だった。

4年で卒業できなかったら学費は私が出す、そんな約束を入学時にしていたので、それを実行するべく春や夏の長期休みにはそこそこ稼ぎのいいアルバイトに精を出した。絨毯工場や建築内装手伝い……。主に紹介先は学相(学生相談所;当時の文部省の外郭団体)だった。今みたいな偽装請負とか日雇い派遣とかはまだ殆どなかったから。
まあ、学費が半年で12万6,000円と比較的安かったのに助けられたのもあるが、それでも物価の値上がりと比較すればおかしな額である。
さらに私学の学費にいたっては教育の機会均等という国連人権規約に違反するのではと思うような額。2~3回生時は学生自治会では学費値上げの反対闘争にも参加していた。

留年期間の途中で半年ほど、アルバイトにこそ行っていたものの、大学には全く顔を出さない日々が続いた。近年の用語でいえば、引きこもっていた。

翌年、大きな転機が訪れた。音楽の演習で出会った下級生に、大変魅力的な女性がいた。それまで学生時代に好きな人はいなかったわけではないが、その全ては口説きもせずにいきなり告白して撃沈、という過程を辿ってきていた。
その演習で出会った人だけは違った。まさに才色兼備というか、内面的にも決して周りにいる人を不愉快にさせない、それでいて八方美人というわけでもなく、でもって学業成績も相当に、という人だった。
結局彼女は必修単位数の関係で別の演習に移ってしまうのだが、それでもキャンパスではいつも出会うと必ず元気良く挨拶してくれていた。
同じ県の採用試験を受けて、彼女は合格するも私は不合格、それでもずっと好きだった。

それまで私は講義への出席率は30%にも満たなかった。従って、出欠が大きく影響する語学や一般体育などが最終回生まで残っていたので、月曜から金曜までほぼ全ての講義を登録しないと卒業は不可能だったが、根性で90%出席して全単位を習得した。勿論下回生と同じ講義に出席することには著しく抵抗感はあったが、やらないことにはどうにもならなかった。
おいおい、卒論かかえた回生のやることと思われへんって。
卒論は……しんどかった。確か1月20日17時締め切りだったが、それまであんまり準備らしい準備が進んでいなかったので、年末年始も殆ど徹夜を何回も続けて、1日平均1時間くらいの睡眠しかとれずに原稿用紙とペンと格闘し続けた。当時はPCのような便利なものもなく、またワープロも相当に高価なもので、学生でも持っている人は少数だった。年明け以降の講義は、卒論執筆のために欠席させて頂く旨、各教官に頼み込んだ。長年大学にいると、当然何回も同じ講義を登録するわけで、従って教官ともそこそこ顔見知りになった。「あ、こいつまた来おったな!」ってね……。

実は後期がスタートした直後の時点で、確か10月中旬頃か、1つだけレポートの提出が1日遅れて受け取ってもらえなかった。それでその単位が取れずに、翌年その1コマだけ残して留年……と思っていたが、卒業の合否判定の日にはなぜか運よく合の字が私の名前の横に押されていた。実はもう1年というのを覚悟していたので、就職活動もせずに、長期バイトの予約もした後だった。
で、卒業が決まった時点で好きだった人にも告白したが、やはり既に意中の人がいるとのことで、あえなく撃沈。
バイトはキャンセルし、教育職の非常勤でどこか欠員がないかどうか、これは寮の先輩に頼み込んで手配してもらった。


そして養護学校の寄宿舎の臨時教員として、私の社会人生活が始まった。
そこでは、どちらかといえば重度の自閉的障害を持つ子どもたちのグループに配属された。
最初のうちコミュニケーションの取り方に難儀していた私は、いらちでせっかちだった。あるいは、なんとかここで1つの実績でも作りたかったのかも知れない。そうすれば教員採用試験で少しは有利かな、などと下らぬ下心も持っていたのだろう。
あるとき、あまりに言うことを聞かない子ども、といっても中3の学年だが、その子に言うことを聞いてほしいあまり、手が出てしまった。
恥ずかしかった。
激しく後悔もした。
反省もした。
それが如何に忌むべきことであるかは、その後の彼の行動変化を見てもよくわかった。それまで決して他の子どもにちょっかいを出すことなどなかったのだが、その日はそれ以降しょっちゅう他の子どもにちょっかいを出していた。
また、運悪く保護者の方々の「寄宿舎参観日」でもあった。
後で保護者ミーティングに参加された先輩教員から聞かされたが、
「ここの舎では子どもを叩いて教育しはるんですか?」
との質問が出たとのこと。
それよりも、体罰を厳しく忌み嫌っていた自分の方針と全く180度異なる行動を、そのまさに自分自身が取ってしまったということ……それに対する強い自己嫌悪に陥り、しばらくは相当落ち込んでいた。
その私が手を出してしまった子どもとも、私の任期が終わるころにはなんとか意思疎通ができるようになり始めたのか、というかラポールの「ラ」の字くらいかな、がうっすらとでき始めたのか、初めて人間対人間としてのコミュニケーションがなされたときには……本当に嬉しかった。
心の底から涙が溢れ出た。

そしてここの寄宿舎の任期も終えて、夏休みに入ると私は車の運転免許を取る費用を貯めるために、建築内装の手伝いに行った。
夏の終わりから日本海に面した街で合宿免許の教習に行った。運転が下手くそで結構難儀したが。
帰って来たら、講師登録をしていた大阪府教育委員会の事務局から、講師の依頼が舞い込んだ。そして、教育実習を除いては初めて、学級担任として高学年のクラスを受け持つことになった。最初断ろうかどうしようか悩んだのだが、結局これも自分の修業の1つ、頑張ってみよう、と思い快諾した。

が、これがまたとんでもないクラスだったと後で知ることになる。


前述のような高校生時代を送って、結局共通一次も大失敗してしまい、大学受験浪人をすることになる。あまり裕福とはいえない家庭だったので、予備校には行かなかった。

高校3年間とこの1年間で、やれ模擬試験だ、参考書だと、なんのかんのいってそこそこ費用はかかったが、予備校に行くのに比べると相当安上がりで済んだ。それに、なにより自分の思い通りにスケジュールを組み立てられる気楽さも存分に味わうことになる。

先に述べた、学校を超えた集まりは浪人生のときにも参加していて、そこではみんなで生活スタイルを報告しあい、批評しあうという時間があった。
ぶっちゃけ、勉強時間がどれくらいなのか、ということなんだが。
予備校に通っている友人たちは、そこの講義も含めて大体週60~80、最高は100時間というのがいた。一方、私を含む少数の宅浪(自宅浪人)組は週50時間もなかなかいかない。因みに私は共通一次直前でようやく80時間のペースにのせたが、それまで大体40時間がアベレージだった。

それだけの努力で到底目標突破なんかは出来るはずもなく、大幅に志望校のランクを下げざるを得なかった。

その年とその前年、つまり私の現役と一浪の2年間は、国公立大学は1つしか受験できなかった。まれに二次募集というのもあったが、世間の趨勢ではなかった。
2年も3年も……それ以上の長期間、親に負担をかけることはできないので、受験先は合格安全圏に変更せざるを得なかった。

勉強時間は少なかったけれども、その中でふと思ったことは……それは、学問には色々な分野があるけれども、結局のところ、この「世界、森羅万象」というものを説明している、という点においては根っこのところで共通しているのではないか、ということだった。つまりそれらは説明する言語が数学であったり物理学や地学であったり歴史学であるだけの話で、言い表そうとしているその対象というべきものは……同じなんじゃないかな、なんて思ったりしていた。

1年年上の、つまり2浪していた先輩が、成人式の帰りに飲酒運転の車と正面衝突し、あえなくこの世を去った。
山車(だんじり)と、祭りが好きで、スキーも好きで、あんまり勉強ははかどっていなかったけれども、人あたりのよさと優しさ、柔和な性格な方で、告別式には多くの友、先輩、後輩が最後のお別れを告げにいらしていた……。

悲しんでいる暇なんかなく、さっさと二次試験向けの勉強にエネルギーは振り向けられた。

その大学の数学では毎年、漸化式が必ず出題されることから、一次後の1ヶ月はほぼ数列全般の学習に充てられた。英語は殆どといっていいほど見向きもしなかった。

ヤマを張った数列と漸化式の問題も難なくクリアして、合格圏に入っているのはずとの実感を持ちつつ帰路に着いたはいいが、解答の最後の最後で、等差数列と等比数列の公式をケアレスミスして取り違えてしまうという、呆れるようなおっちょこちょいをやらかしてしまう。

私は幼少期からおっちょこちょいだったが、これがそんな場面でも発揮されるとは思ってもみなかった。

本来は真面目で内気な方で、決して主観的にはいい加減でもチャランポランでもないのだが、注意力散漫とか早合点、おっちょこちょいな面があり、結構「詰めが甘い」「ちゃらんぽらん」と人からは思われているふしもある。

しかしなんとか無事進学することができ、春から大学生となった。
入学式の日は、4月で既に桜も満開だというのに、みぞれ模様……。夏物のスーツで行ったので、その天候に驚いたし、少し寒く感じた。

当時「大学の講義はサボるもの」というアホな固定概念を持っていた私は、出欠の厳しさに驚き、そして反発すらもしてしまった。そしてそれが元々のサボリ癖と相俟って、講義には殆ど顔を出さなくなってしまった。

本当は真面目に講義に出たいと思っていたのだが、そしてその願いをかなえるべく、大学の近くの学寮に移ったのだが、事態は一向に改善されなかった。

替わりに、というわけではないが、のめりこんだものが、自治会活動とサークル活動で、さらに合間に色んな書物と格闘していた。
そしてそれらが将来の自分への投資であるとか、なんのかんのとわけのわからぬ合理化をして……。

お子様だったんだな、俺。

私が1回生の冬に、父の60歳定期健診での異常が見つかった。
もともと消化器系はあまり丈夫ではなかったので、しょっちゅう胃薬を飲んではいたが、進行性胃癌の末期との診断結果だった。

1回目の手術は私が2回生になる直前の春だった。胃の4/5を切除したが、その時点で既に内臓ほぼ全体に転移が始まっており、余命は長くて1年もない、と聞かされ……ショックだった。
父に本当の病名は告げる勇気がなかった。
母からも秘密にするように言われた。
結局癌であることは告知しないままに他界してしまうのだが、今にして思えばきっと感づいていたと思う。
偽の病名(胃潰瘍)を父は自ら口にすることはなく、概して「病気が……」という、きわめて曖昧な表現でしか言ってなかったから。

この告知を受けたときだった、正式に父と和解したいと感じたのは。

もうあと1年で死んでしまうのなら、今のうちに和解しておかないときっと後悔する……。

だが、どうしてもこちらから言い出せなかった。

自分自身の弱さもあるが、その多くは、それは当時色々とやっていた活動のいずれも重要ポジションにいて、どれも手抜きは許されなかったし、本当は放り出してしまってずっと見舞っていたい欲望に駆られたが、当時の上の方からの説得に応じてしまったからだった。

それらの任務をこなしながら、アルバイトもしながら、忙しい合間を縫って病院に見舞いに駆けつけた。

最初の手術は私の20歳の誕生日に執刀されたが、なんとか順調に行き、見事な回復力を見せ、5月のゴールデンウィークに退院、そして食欲も旺盛になり体重も順調に戻っていたようだった。
秋には、「もうすぐ職場復帰する。」とすら言っていたらしい。

その頃学寮に住んでいた私は、ある日実家にある私物をとりに日帰りで帰省した。そのときに父は随分と喜んでくれて、なんでもすき焼きを作る算段を整えていてくれたらしい。関東人だったから関東風なのだが、それが我が家では定番だった。
父の好意にもかかわらず私はサッサと寮に戻ってしまった。

薄情者で、ワガママだったんだな。

今から思えば、あれが父と食卓を囲む最後のチャンスだった。
それからすき焼きというメニューが私の心の中では大きなトラウマになった。食べられないというのではなしに、そのメニューが出てくるたびに父を思い出すのだ。ああ、あのとき引きとめに応じて、一緒に食卓を囲んでおけばよかったなあ……と。

晩秋の頃から食欲が減退し始め、食べ物が喉を通りにくくなっていった。
殆ど食物を受け付けなくなる前に、医師の診察を受けると、その癌は胃だけではなく、肝臓から胆嚢などにも転移が更に進んで、最早手がつけられない状態だった。
年末に1度だけ手術(胆管のバイパス形成)をしたものの、手遅れでもあったし、口からの栄養摂取もなかなか難しく、どちらかといえば点滴にたよっていたこともあり、相当やせ細っていた。
それでも正月には……餅を焼いてお節を一部とりわけて病院に持っていくと嬉しそうな顔をして、喜んでくれた。
当時は喫煙習慣のなかった私は、いや寧ろ嫌煙者といっても差し支えなかったろう、食物も出来る限り自然のものを求めて色々と探索していたが、懇意にしていた食品店のマスターが薦めてくれたのが、玄米粥と枇杷葉温圧による癌細胞退治だった。
まさに、「溺れるものは藁にもすがる」
手遅れとはわかっていても、なんとかしたい、なんとか助けたいという一心で、色々とやってみたかった。実際には父の同意が得られずに殆どが出来ずじまいだったのだが……。

1週間に1度程度しか見舞うことはできなかったが、行くたびにやせ細って弱っていき、次第に会話する余力も失われつつあり……見舞いに行きたいけれども行きたくない、つまり残された時間を少しでも長く共有したいという思いと、病状の進行を見たくないから行きたくないという相反する2つの思いが同居していた。

結局2度3度と、胆管のバイパス形成手術がなされるものの、いずれも失敗に終わり、ますますやせ細っていった。

いずれも手術のときには病院に行ったが、確か最後の手術の、手術室に入る前の担架の上に乗せられた父の姿を見て、無性に悲しくなった。
こんなに小さくなっちゃった……。
父は当時の人間としては、172cmと長身だったが、担架に元気なく横たわる姿は、痩せ細っているためか、うんと小柄に見えた。
悲しかった。衝撃的な悲しさだった。

2月に入り、大学は試験期間に突入し、なかなか見舞いに行けないものの、気がかりでもあった。

2月13日に見舞いに行ったときには相当弱っており、きわめて短時間しか話せなかった。
病室を出る前に、握手をした。
「男らしい、いい手してる。」
「じゃ、元気で。」

それっきり、父の声を聞くことはできなくなった。

2月21日早朝、実家からの電話で、昏睡状態に陥ったと聞かされた。
殆ど身支度もせずに大慌てで寮を後にした。
私が病院に到着したときには、補助呼吸装置を装着され、会話もできず、時折叫ぶ声とともに身体の一部を動かしてあたかも生への執着を意思表示しているかのように思えた。

この状態が数日から1週間くらい続くかも知れないと感じた私は、とりあえずの生活用具を速攻で取りにいって、また病院に戻ってきた。

病室の、父が横たわっていたベッドは空いていた。

看護士さんに聞くと……霊安室とのことだった。

間に合わなかった。最後を看取ってやることが……できなかった。
母が看取ってくれた。

1988年2月21日午後6時54分。享年61歳。

亡くなって直後は、確かに悲しいことは悲しかったけれど、バタバタしていて悲しいというよりも忙しさの方が迫り来ていた。
でも、しばらくして色んな法要が一通り過ぎると……悲しいのもあるけれども、なんかこう、ぽっかり心に穴が開いたような、心の中を風が吹いていくような、そんな気持ちになった。

それから数年は父の夢を見ることもあったけれど……
最近は……さすがに20年が経過しているせいか、あまりない。

太平洋戦争の末期には、人手不足で代用教員をやったりしてた。その少し後には、江戸崎というところで軍隊の訓練をしていたらしい。

もしも戦争の終結がもう少し遅かったら、あるいは私はひょっとしたらこの世にはいないかもしれない。

とりあえず、今ここに私がこうして存在することは、奇跡か偶然か……それは私も分からない。

生前さんざん困らせ、悩ませもしたけど……ごめん。
しょうもないことで腹を立てたり、冷たくあたったりしたけれども……ごめん。
俺のだらしないところがわかったから、いつも叱ってくれていたんだよね……。

お父さんとお母さんがいてこそ、今俺がいるんだよね……。

ありがとう、お父さん、そしてお母さん。



ところで、これまでここに書いてきた私の生い立ちの長文の中に、あまり他者との関わりについて触れられていないことを感じた人もいるかもしれない。
そう、どちらかと言えば、人づきあいの苦手な方だった。集団からはいつも一歩距離を置いていた。幼稚園時代はどうだったかよく覚えてはいないが、小学生時代も、そして中学生時代も……。

高校生の頃も、あまりクラスに馴染まなかったな。でも3年生の頃には、みんなと一緒に呑みに行ったりしていた。体育祭の打ち上げとか、卒業式の後とか。
全く友人がいなかったというわけではない。ごくごく少数の人とじっくり、という方だったと思う。また、どちらかといえば、孤独も平気だった、という感じもする。
でも今は……寂しがりやな私がいる。

なんとか無事公立高校に合格したときは、その直後はとりあえずホッとした。そして、「俺より上の高校に入った奴らを見返してやるぞ!!」と密かに決意したりした。
私の入学した高校はかつては名門と呼ばれていたらしいが、当時は進学実績は芳しくなく、先生方は伝統復活のために躍起になっておられた。

高校に入って間もない頃は、とにかく性欲を忘れたいがために、ギターと読書と勉強に打ち込んだ。珈琲のことも研究し始めた。

小学校高学年の頃に、シャーロック・ホームズに夢中になった時期があって、ホームズ探偵はモカが好きだったような描写があり、モカって本当に美味いのかな?っていう疑問から始まったように思う。
モカって、日本に入ってくる豆は最高の等級じゃないから、若干不純物(腐敗豆、未熟豆、小石、コッコと呼ばれる別の植物の種子など)が入ってる。それを丁寧な店はきちんとハンドピックで取り除いているんだけれども、ええ加減な店は取り除かずにそのまま焙煎してしまうから、異臭がする豆や粉を売ってる店は避けた方がいいだろう。

ギターは元々好きだったから、一生懸命没頭するのに動機付けなんかいらない。

読書は、これは本当に不純な動機で始めたのだが、多くの書物を読み進めることにより、現代文の読解力を上げたい、それがきっかけだった。
しかし実際に始めてみると、自分自身の興味の幅は予想以上に拡がって行き、それはさまざまな分野に及んでいった。
当時主として読んでいたのは、中・高生向けの、つまり思春期や青年期の心理学の本。何冊か読んでみると、「俺も将来こういった本を書けるようになれたらええなあ。」と単純に思った。そこで、心理学に対する関心が深まっていった。
もちろん、他の分野のものも貪欲に、手当たり次第、乱読・多読といったところか。西洋文学・評論・随筆・その他……。
比較的心に残っているのは、ビクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」、フランツ・カフカの「変身」、O・ヘンリの短編集、星新一短編集……。
日本文学特に純文学はどちらかといえば少し苦手だった。なんとなく「暗い」という先入観を持っていた。

河合隼雄氏の訃報の際にも書いたかと思うが、彼が研究室を構える京都大学教育学部への入学をとりあえず目標において、受験勉強においては力を注いだ。それくらいの高い目標を掲げないと、現役での国公立大学合格すらおぼつかない、と考えたためだ。
しかしそのためには膨大な努力を必要とすることはいうまでもない。当時日本で東大と京大はほぼ偏差値ランクは等しかった。学部によっては京大の方がより高い偏差値を必要とさえしていた。

京大を目標にしたのは、それ以外にも色々な理由があった。
当時抱いていたイメージが、東大=中央官僚直結、京大=自由なアカデミズム。その自由な学風で学びたい、という欲求があった。
また、自宅から通学可能な距離、という条件もあった。遠いけれども。

そしてもう1つは……京都、という街に対する憧れ、のようなものがあった。
かつては市電と呼ばれた電車が走り、春は桜が、晩秋は紅葉が、そしてそれ以外の季節でも葵祭、夏の祇園祭、五山の送り火、秋の時代祭、大晦日~元日はおけら詣り、と四季折々の表情があり、古寺巡礼も、名所探訪も事欠かない、そして瓦屋根の連なる美しい街並み……そんな京都が好きだった。高校時代は梅田に行くよりも頻繁に行った。
しかし残念ながら、80年代の市政で財界べったりの政策の一環として取られた「高さ規制緩和」により、あちこちに「のっぽビル」が林立し、旧き良き街並みは……若干変化してしまう。
その最たるものが京都駅ビルだろう。
数年前に、駅ビルが完成してから初めて京都を訪れたときに……「なんやこれ!?鉄のカーテンかぁ!?それともベルリンの壁かぁ!?」って感じた。
……今になってから、建築物の規制を強化してきたけれども、だったらあのときにやってへんかったらええんちゃうん??ああ!?……って、思ってしまう。
だがしかし、これもまた民衆の声が政治に反映されてきているとみれば、今後のまちづくりに少しは期待してもいいだろう……ね。

今でも京都は好きな街である。

丸竹夷二押御池、姉三六角蛸錦……

前に日記に書いたように、中学時代には数学は全く不得意、英語だけが得意科目だった。
とにかく数学を克服しないと、共通一次も二次試験もどうにもならない。家庭学習の殆どの時間は数学?の予復習に費やされ、英語や古典の予復習の時間は殆ど取れなかった。
初めての中間テスト、数学は2つあってそれぞれ17/100点、27/100点という素晴らしい?点数を取った。解答用紙の多くを空白で提出してしまった。

自分には基礎が備わっていないのだから、と考え、恥ずかしいことではあったが、高1の夏休み中に、中学3年間分の教科書をもう一度引っぱり出してきて、全て重要項目を総復習した。

ようやく2学期以降、数学はほぼ安定して得点を叩きだせる科目になり、また中学時代に大いに苦しめられた、グラフと交点の関係や、展開公式を二次式にあっては長方形の面積で、三次式にあっては立体の体積と結びつけて理解ができ、わからなかったことがわかって、できなかったことができるようになる楽しさ、というのが理解できた。

嬉しかった。

高1の頃、好きだった女性は……意中の人がいるみたいだったので、言い出せずに終わった。
高2の頃好きだった人は……少し変わった人だったが、なぜか軽いノリでつきあおうと言ってしまった。一瞬快諾をしてもらったが、学年末試験のバタバタの中で結局これはウヤムヤに終わった。
高3のときに好きだった人は……当時私はある学校外の有志の活動にのめりこんでいて、そこの先輩だった。某旧制帝大の学生だった。結局浪人時代も含めて2年間この人を好きだったけれども、この恋もかなわずじまい。でもなぜか、結婚しましょう、なんて言ってたな。

純粋な恋愛と純粋な性欲の乖離が自分自身の中で一向に進まないことに苛立ちを感じてはいたが、やがてそれは決して分離するべきものでもなく、また自分自身の恋愛観の未熟さによるものでもあると気付いた。だがしかし、それをより高い形へと昇華できてもいなかったので、やはり襲い来る射精欲と形容して差し支えないであろうところの、下半身にくる疼きのようなものに絶えず苦しめられていた。特に高1の頃は。
1度、どれだけ我慢できるか試してもみたくなって、挑戦したが……1週間が限界だった。当初の2日くらいは地獄で……3日目くらいからは平穏に過ごせるのだが……その後6~7日目くらいの大きな波は返すことが出来なかった。射精という行為に常に罪悪感がつきまとっていたのは最初の1年間くらいだけれども、無理に我慢に我慢を重ねて発狂するよりはマシか、と開き直って考えられるようになるのは高2以降まで待たねばならなかった。

丁度この頃から、学校をちょくちょくサボりだす。
高1までは遅刻4回で済んだのだが、高2のときに、学校をサボリがちな同級生がいて、そいつはどんな気持ちなのか知りたくて、というか体験したくて、試しにサボってみた。
あほな俺。そんなんせんでええのに。
あんまり良い気持ちではなかったが、それ以来付いてしまったサボリ癖、高校卒業時にも苦しめられるとは予想だにしていなかった。

授業をサボるものだから、だんだんと学力が低下していったし、今度はそれを補うためにますます家での学習時間が増大、そしてなかなか朝起きられない、という悪循環、負のスパイラルに陥っていった。

2年、3年とついてしまった悪習慣のために、一時期は「退学して大検で」ともマジで考えてはみた。
しかし、それを実行しようとすれば、大学入試で選択しない科目(物理や生物、日本史や地理)にも手を広げなければならず、結局、より負担の少ない方法を選ぶとすれば、高校に通い続けることだろう、と考えて思い直した。3年生のときは、2学期終了時点で、もうあと1回の遅刻も許されないという、いってみればリーチだった。
3学期の授業なんて殆どない。共通一次が終わってすぐ「自主学習」に入ったから、言ってみれば1ヶ月だけだ。さすがにこの一月だけは皆勤だった。で、なんとか3年で卒業した。

体育の授業のサボリにはやたら厳しい学校で、特に水泳はそうだった。1回さぼると、25m×12本、これが1回あたりのノルマだった。夏休み前の、つまり試験休みか、その期間中に休んだ回数のノルマをこなさないと単位がなかった。このときの、いわば「救済措置」ともいえる補習で、なぜか水泳が好きになった。
当時はまだクロールしかろくにできなかったが、周囲の同級生たちは私が運動が不得手と知っているものだから、「やったら速いなあ!!」と驚いていたためだろう。前を泳ぐ同級生たちにいつもぶつかってしまってたな……。
おいおい、ちゃんと加減せえよ。

高校生の頃から、父と仲が悪くなる。結局きちんと和解できないままにあの世へと旅立ってしまうのだったが、このことは今でも後悔している、というか、悔やんでも悔やみきれない……。




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