私感・雑感
思ったことを思ったように書きます。
プロフィール

paix31415

Author:paix31415
2008年秋に発達障害とわかり、以後色々と紆余曲折を経て、自らの障害を受容、肯定し、前向きに生きています。 発達障害のこと以外でも、世の中のこと、社会、平和、政治、家庭、人間関係、趣味や特技などなんでも広く考えたいと思います。

更新はなかなかできないかもしれませんが、徒然なるままに、それらのことを含めてときには恋愛話やエッチな話もアリ!?色々な私感・雑感を書いていきたいと思います。

記事の内容(文章及び画像)を引用や転載される場合は、事前にご一報下さい。



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大晦日……
年末年始、帰省される方も多いと思いますが、このシーズンになるといつも思い出して胸にジンと来る歌をご紹介します。

寒北斗
作詩・作曲 : さだまさし
幾つになっても郷土へ帰るのはいいもんだ
照れ臭くってあたたかくっていいもんだ
土産といってもこの躰折りから郷土は煤払い

ひと息ついたら親父は美味そうに煮凝を喰う
お袋は炊事場で酒を煮る
子供の頃から動いてる柱時計が時を打つ

昔晦日に餅もなく子供の顔をみつめてた
あなたの気持ちわかる程大人になって去年今年

親父は時計に向ってひとり言此頃合わないぞとひとり言
知ってか知らずかまな板の遠くで葱切る音がする


幾つになってもお袋には子供は子供
酒飲むなの躰こわすなの小言いう
小言といってもこの耳に何故か今夜は心地よい

二本目の徳利を差し出せばお袋は座ったまま眠ってる
胸をつかれて不覚にも涙ひとつこぼれました

ふと仰ぎ見る古里の窓に横たう天の川
お前の意志を曲ぐるなとはげますごとき寒北斗

たった今決心がつきました年があけたら嫁をもらいます
知ってか知らずか床の間でゆらりと揺れた福寿草



実際の私は……既に父はなく、柱時計も家にはありませんし、来年早々に結婚するなんて予定もありませんが……。

昔に比べると、大晦日から元日にかけての風景も様変わりしましたね。

大抵三が日くらいはどこのお店も休みで、お節の宅配なんかもなくて、各家庭でお節料理やお雑煮、お正月の準備に追われていて、で黒豆やお煮しめ、ごまめ、それらを作りながら後ろでは紅白が鳴っていて、ようやく出来た頃にゆく年くる年から除夜の鐘が聞こえてくる……というパターンだったかと思い出します。

ところで、これまで私の長い長い自己紹介にお付き合いいただいて、というか、なかなかコメントもしにくかったと思うけれども、書いてくれた方々……ありがとうございます。

続きはまた年明け以降に、そうですね……後2~3回くらいでしょうか。

今年は皆さん、色々とお世話になりました。

来年もまた、宜しくお願いいたします。

どうか良いお年をお迎え下さいね!!



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浪人時代から学生時代……

前述のような高校生時代を送って、結局共通一次も大失敗してしまい、大学受験浪人をすることになる。あまり裕福とはいえない家庭だったので、予備校には行かなかった。

高校3年間とこの1年間で、やれ模擬試験だ、参考書だと、なんのかんのいってそこそこ費用はかかったが、予備校に行くのに比べると相当安上がりで済んだ。それに、なにより自分の思い通りにスケジュールを組み立てられる気楽さも存分に味わうことになる。

先に述べた、学校を超えた集まりは浪人生のときにも参加していて、そこではみんなで生活スタイルを報告しあい、批評しあうという時間があった。
ぶっちゃけ、勉強時間がどれくらいなのか、ということなんだが。
予備校に通っている友人たちは、そこの講義も含めて大体週60~80、最高は100時間というのがいた。一方、私を含む少数の宅浪(自宅浪人)組は週50時間もなかなかいかない。因みに私は共通一次直前でようやく80時間のペースにのせたが、それまで大体40時間がアベレージだった。

それだけの努力で到底目標突破なんかは出来るはずもなく、大幅に志望校のランクを下げざるを得なかった。

その年とその前年、つまり私の現役と一浪の2年間は、国公立大学は1つしか受験できなかった。まれに二次募集というのもあったが、世間の趨勢ではなかった。
2年も3年も……それ以上の長期間、親に負担をかけることはできないので、受験先は合格安全圏に変更せざるを得なかった。

勉強時間は少なかったけれども、その中でふと思ったことは……それは、学問には色々な分野があるけれども、結局のところ、この「世界、森羅万象」というものを説明している、という点においては根っこのところで共通しているのではないか、ということだった。つまりそれらは説明する言語が数学であったり物理学や地学であったり歴史学であるだけの話で、言い表そうとしているその対象というべきものは……同じなんじゃないかな、なんて思ったりしていた。

1年年上の、つまり2浪していた先輩が、成人式の帰りに飲酒運転の車と正面衝突し、あえなくこの世を去った。
山車(だんじり)と、祭りが好きで、スキーも好きで、あんまり勉強ははかどっていなかったけれども、人あたりのよさと優しさ、柔和な性格な方で、告別式には多くの友、先輩、後輩が最後のお別れを告げにいらしていた……。

悲しんでいる暇なんかなく、さっさと二次試験向けの勉強にエネルギーは振り向けられた。

その大学の数学では毎年、漸化式が必ず出題されることから、一次後の1ヶ月はほぼ数列全般の学習に充てられた。英語は殆どといっていいほど見向きもしなかった。

ヤマを張った数列と漸化式の問題も難なくクリアして、合格圏に入っているのはずとの実感を持ちつつ帰路に着いたはいいが、解答の最後の最後で、等差数列と等比数列の公式をケアレスミスして取り違えてしまうという、呆れるようなおっちょこちょいをやらかしてしまう。

私は幼少期からおっちょこちょいだったが、これがそんな場面でも発揮されるとは思ってもみなかった。

本来は真面目で内気な方で、決して主観的にはいい加減でもチャランポランでもないのだが、注意力散漫とか早合点、おっちょこちょいな面があり、結構「詰めが甘い」「ちゃらんぽらん」と人からは思われているふしもある。

しかしなんとか無事進学することができ、春から大学生となった。
入学式の日は、4月で既に桜も満開だというのに、みぞれ模様……。夏物のスーツで行ったので、その天候に驚いたし、少し寒く感じた。

当時「大学の講義はサボるもの」というアホな固定概念を持っていた私は、出欠の厳しさに驚き、そして反発すらもしてしまった。そしてそれが元々のサボリ癖と相俟って、講義には殆ど顔を出さなくなってしまった。

本当は真面目に講義に出たいと思っていたのだが、そしてその願いをかなえるべく、大学の近くの学寮に移ったのだが、事態は一向に改善されなかった。

替わりに、というわけではないが、のめりこんだものが、自治会活動とサークル活動で、さらに合間に色んな書物と格闘していた。
そしてそれらが将来の自分への投資であるとか、なんのかんのとわけのわからぬ合理化をして……。

お子様だったんだな、俺。

私が1回生の冬に、父の60歳定期健診での異常が見つかった。
もともと消化器系はあまり丈夫ではなかったので、しょっちゅう胃薬を飲んではいたが、進行性胃癌の末期との診断結果だった。

1回目の手術は私が2回生になる直前の春だった。胃の4/5を切除したが、その時点で既に内臓ほぼ全体に転移が始まっており、余命は長くて1年もない、と聞かされ……ショックだった。
父に本当の病名は告げる勇気がなかった。
母からも秘密にするように言われた。
結局癌であることは告知しないままに他界してしまうのだが、今にして思えばきっと感づいていたと思う。
偽の病名(胃潰瘍)を父は自ら口にすることはなく、概して「病気が……」という、きわめて曖昧な表現でしか言ってなかったから。

この告知を受けたときだった、正式に父と和解したいと感じたのは。

もうあと1年で死んでしまうのなら、今のうちに和解しておかないときっと後悔する……。

だが、どうしてもこちらから言い出せなかった。

自分自身の弱さもあるが、その多くは、それは当時色々とやっていた活動のいずれも重要ポジションにいて、どれも手抜きは許されなかったし、本当は放り出してしまってずっと見舞っていたい欲望に駆られたが、当時の上の方からの説得に応じてしまったからだった。

それらの任務をこなしながら、アルバイトもしながら、忙しい合間を縫って病院に見舞いに駆けつけた。

最初の手術は私の20歳の誕生日に執刀されたが、なんとか順調に行き、見事な回復力を見せ、5月のゴールデンウィークに退院、そして食欲も旺盛になり体重も順調に戻っていたようだった。
秋には、「もうすぐ職場復帰する。」とすら言っていたらしい。

その頃学寮に住んでいた私は、ある日実家にある私物をとりに日帰りで帰省した。そのときに父は随分と喜んでくれて、なんでもすき焼きを作る算段を整えていてくれたらしい。関東人だったから関東風なのだが、それが我が家では定番だった。
父の好意にもかかわらず私はサッサと寮に戻ってしまった。

薄情者で、ワガママだったんだな。

今から思えば、あれが父と食卓を囲む最後のチャンスだった。
それからすき焼きというメニューが私の心の中では大きなトラウマになった。食べられないというのではなしに、そのメニューが出てくるたびに父を思い出すのだ。ああ、あのとき引きとめに応じて、一緒に食卓を囲んでおけばよかったなあ……と。

晩秋の頃から食欲が減退し始め、食べ物が喉を通りにくくなっていった。
殆ど食物を受け付けなくなる前に、医師の診察を受けると、その癌は胃だけではなく、肝臓から胆嚢などにも転移が更に進んで、最早手がつけられない状態だった。
年末に1度だけ手術(胆管のバイパス形成)をしたものの、手遅れでもあったし、口からの栄養摂取もなかなか難しく、どちらかといえば点滴にたよっていたこともあり、相当やせ細っていた。
それでも正月には……餅を焼いてお節を一部とりわけて病院に持っていくと嬉しそうな顔をして、喜んでくれた。
当時は喫煙習慣のなかった私は、いや寧ろ嫌煙者といっても差し支えなかったろう、食物も出来る限り自然のものを求めて色々と探索していたが、懇意にしていた食品店のマスターが薦めてくれたのが、玄米粥と枇杷葉温圧による癌細胞退治だった。
まさに、「溺れるものは藁にもすがる」
手遅れとはわかっていても、なんとかしたい、なんとか助けたいという一心で、色々とやってみたかった。実際には父の同意が得られずに殆どが出来ずじまいだったのだが……。

1週間に1度程度しか見舞うことはできなかったが、行くたびにやせ細って弱っていき、次第に会話する余力も失われつつあり……見舞いに行きたいけれども行きたくない、つまり残された時間を少しでも長く共有したいという思いと、病状の進行を見たくないから行きたくないという相反する2つの思いが同居していた。

結局2度3度と、胆管のバイパス形成手術がなされるものの、いずれも失敗に終わり、ますますやせ細っていった。

いずれも手術のときには病院に行ったが、確か最後の手術の、手術室に入る前の担架の上に乗せられた父の姿を見て、無性に悲しくなった。
こんなに小さくなっちゃった……。
父は当時の人間としては、172cmと長身だったが、担架に元気なく横たわる姿は、痩せ細っているためか、うんと小柄に見えた。
悲しかった。衝撃的な悲しさだった。

2月に入り、大学は試験期間に突入し、なかなか見舞いに行けないものの、気がかりでもあった。

2月13日に見舞いに行ったときには相当弱っており、きわめて短時間しか話せなかった。
病室を出る前に、握手をした。
「男らしい、いい手してる。」
「じゃ、元気で。」

それっきり、父の声を聞くことはできなくなった。

2月21日早朝、実家からの電話で、昏睡状態に陥ったと聞かされた。
殆ど身支度もせずに大慌てで寮を後にした。
私が病院に到着したときには、補助呼吸装置を装着され、会話もできず、時折叫ぶ声とともに身体の一部を動かしてあたかも生への執着を意思表示しているかのように思えた。

この状態が数日から1週間くらい続くかも知れないと感じた私は、とりあえずの生活用具を速攻で取りにいって、また病院に戻ってきた。

病室の、父が横たわっていたベッドは空いていた。

看護士さんに聞くと……霊安室とのことだった。

間に合わなかった。最後を看取ってやることが……できなかった。
母が看取ってくれた。

1988年2月21日午後6時54分。享年61歳。

亡くなって直後は、確かに悲しいことは悲しかったけれど、バタバタしていて悲しいというよりも忙しさの方が迫り来ていた。
でも、しばらくして色んな法要が一通り過ぎると……悲しいのもあるけれども、なんかこう、ぽっかり心に穴が開いたような、心の中を風が吹いていくような、そんな気持ちになった。

それから数年は父の夢を見ることもあったけれど……
最近は……さすがに20年が経過しているせいか、あまりない。

太平洋戦争の末期には、人手不足で代用教員をやったりしてた。その少し後には、江戸崎というところで軍隊の訓練をしていたらしい。

もしも戦争の終結がもう少し遅かったら、あるいは私はひょっとしたらこの世にはいないかもしれない。

とりあえず、今ここに私がこうして存在することは、奇跡か偶然か……それは私も分からない。

生前さんざん困らせ、悩ませもしたけど……ごめん。
しょうもないことで腹を立てたり、冷たくあたったりしたけれども……ごめん。
俺のだらしないところがわかったから、いつも叱ってくれていたんだよね……。

お父さんとお母さんがいてこそ、今俺がいるんだよね……。

ありがとう、お父さん、そしてお母さん。




テーマ:わたしの心 - ジャンル:心と身体

高校生の頃……
ところで、これまでここに書いてきた私の生い立ちの長文の中に、あまり他者との関わりについて触れられていないことを感じた人もいるかもしれない。
そう、どちらかと言えば、人づきあいの苦手な方だった。集団からはいつも一歩距離を置いていた。幼稚園時代はどうだったかよく覚えてはいないが、小学生時代も、そして中学生時代も……。

高校生の頃も、あまりクラスに馴染まなかったな。でも3年生の頃には、みんなと一緒に呑みに行ったりしていた。体育祭の打ち上げとか、卒業式の後とか。
全く友人がいなかったというわけではない。ごくごく少数の人とじっくり、という方だったと思う。また、どちらかといえば、孤独も平気だった、という感じもする。
でも今は……寂しがりやな私がいる。

なんとか無事公立高校に合格したときは、その直後はとりあえずホッとした。そして、「俺より上の高校に入った奴らを見返してやるぞ!!」と密かに決意したりした。
私の入学した高校はかつては名門と呼ばれていたらしいが、当時は進学実績は芳しくなく、先生方は伝統復活のために躍起になっておられた。

高校に入って間もない頃は、とにかく性欲を忘れたいがために、ギターと読書と勉強に打ち込んだ。珈琲のことも研究し始めた。

小学校高学年の頃に、シャーロック・ホームズに夢中になった時期があって、ホームズ探偵はモカが好きだったような描写があり、モカって本当に美味いのかな?っていう疑問から始まったように思う。
モカって、日本に入ってくる豆は最高の等級じゃないから、若干不純物(腐敗豆、未熟豆、小石、コッコと呼ばれる別の植物の種子など)が入ってる。それを丁寧な店はきちんとハンドピックで取り除いているんだけれども、ええ加減な店は取り除かずにそのまま焙煎してしまうから、異臭がする豆や粉を売ってる店は避けた方がいいだろう。

ギターは元々好きだったから、一生懸命没頭するのに動機付けなんかいらない。

読書は、これは本当に不純な動機で始めたのだが、多くの書物を読み進めることにより、現代文の読解力を上げたい、それがきっかけだった。
しかし実際に始めてみると、自分自身の興味の幅は予想以上に拡がって行き、それはさまざまな分野に及んでいった。
当時主として読んでいたのは、中・高生向けの、つまり思春期や青年期の心理学の本。何冊か読んでみると、「俺も将来こういった本を書けるようになれたらええなあ。」と単純に思った。そこで、心理学に対する関心が深まっていった。
もちろん、他の分野のものも貪欲に、手当たり次第、乱読・多読といったところか。西洋文学・評論・随筆・その他……。
比較的心に残っているのは、ビクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」、フランツ・カフカの「変身」、O・ヘンリの短編集、星新一短編集……。
日本文学特に純文学はどちらかといえば少し苦手だった。なんとなく「暗い」という先入観を持っていた。

河合隼雄氏の訃報の際にも書いたかと思うが、彼が研究室を構える京都大学教育学部への入学をとりあえず目標において、受験勉強においては力を注いだ。それくらいの高い目標を掲げないと、現役での国公立大学合格すらおぼつかない、と考えたためだ。
しかしそのためには膨大な努力を必要とすることはいうまでもない。当時日本で東大と京大はほぼ偏差値ランクは等しかった。学部によっては京大の方がより高い偏差値を必要とさえしていた。

京大を目標にしたのは、それ以外にも色々な理由があった。
当時抱いていたイメージが、東大=中央官僚直結、京大=自由なアカデミズム。その自由な学風で学びたい、という欲求があった。
また、自宅から通学可能な距離、という条件もあった。遠いけれども。

そしてもう1つは……京都、という街に対する憧れ、のようなものがあった。
かつては市電と呼ばれた電車が走り、春は桜が、晩秋は紅葉が、そしてそれ以外の季節でも葵祭、夏の祇園祭、五山の送り火、秋の時代祭、大晦日~元日はおけら詣り、と四季折々の表情があり、古寺巡礼も、名所探訪も事欠かない、そして瓦屋根の連なる美しい街並み……そんな京都が好きだった。高校時代は梅田に行くよりも頻繁に行った。
しかし残念ながら、80年代の市政で財界べったりの政策の一環として取られた「高さ規制緩和」により、あちこちに「のっぽビル」が林立し、旧き良き街並みは……若干変化してしまう。
その最たるものが京都駅ビルだろう。
数年前に、駅ビルが完成してから初めて京都を訪れたときに……「なんやこれ!?鉄のカーテンかぁ!?それともベルリンの壁かぁ!?」って感じた。
……今になってから、建築物の規制を強化してきたけれども、だったらあのときにやってへんかったらええんちゃうん??ああ!?……って、思ってしまう。
だがしかし、これもまた民衆の声が政治に反映されてきているとみれば、今後のまちづくりに少しは期待してもいいだろう……ね。

今でも京都は好きな街である。

丸竹夷二押御池、姉三六角蛸錦……

前に日記に書いたように、中学時代には数学は全く不得意、英語だけが得意科目だった。
とにかく数学を克服しないと、共通一次も二次試験もどうにもならない。家庭学習の殆どの時間は数学?の予復習に費やされ、英語や古典の予復習の時間は殆ど取れなかった。
初めての中間テスト、数学は2つあってそれぞれ17/100点、27/100点という素晴らしい?点数を取った。解答用紙の多くを空白で提出してしまった。

自分には基礎が備わっていないのだから、と考え、恥ずかしいことではあったが、高1の夏休み中に、中学3年間分の教科書をもう一度引っぱり出してきて、全て重要項目を総復習した。

ようやく2学期以降、数学はほぼ安定して得点を叩きだせる科目になり、また中学時代に大いに苦しめられた、グラフと交点の関係や、展開公式を二次式にあっては長方形の面積で、三次式にあっては立体の体積と結びつけて理解ができ、わからなかったことがわかって、できなかったことができるようになる楽しさ、というのが理解できた。

嬉しかった。

高1の頃、好きだった女性は……意中の人がいるみたいだったので、言い出せずに終わった。
高2の頃好きだった人は……少し変わった人だったが、なぜか軽いノリでつきあおうと言ってしまった。一瞬快諾をしてもらったが、学年末試験のバタバタの中で結局これはウヤムヤに終わった。
高3のときに好きだった人は……当時私はある学校外の有志の活動にのめりこんでいて、そこの先輩だった。某旧制帝大の学生だった。結局浪人時代も含めて2年間この人を好きだったけれども、この恋もかなわずじまい。でもなぜか、結婚しましょう、なんて言ってたな。

純粋な恋愛と純粋な性欲の乖離が自分自身の中で一向に進まないことに苛立ちを感じてはいたが、やがてそれは決して分離するべきものでもなく、また自分自身の恋愛観の未熟さによるものでもあると気付いた。だがしかし、それをより高い形へと昇華できてもいなかったので、やはり襲い来る射精欲と形容して差し支えないであろうところの、下半身にくる疼きのようなものに絶えず苦しめられていた。特に高1の頃は。
1度、どれだけ我慢できるか試してもみたくなって、挑戦したが……1週間が限界だった。当初の2日くらいは地獄で……3日目くらいからは平穏に過ごせるのだが……その後6~7日目くらいの大きな波は返すことが出来なかった。射精という行為に常に罪悪感がつきまとっていたのは最初の1年間くらいだけれども、無理に我慢に我慢を重ねて発狂するよりはマシか、と開き直って考えられるようになるのは高2以降まで待たねばならなかった。

丁度この頃から、学校をちょくちょくサボりだす。
高1までは遅刻4回で済んだのだが、高2のときに、学校をサボリがちな同級生がいて、そいつはどんな気持ちなのか知りたくて、というか体験したくて、試しにサボってみた。
あほな俺。そんなんせんでええのに。
あんまり良い気持ちではなかったが、それ以来付いてしまったサボリ癖、高校卒業時にも苦しめられるとは予想だにしていなかった。

授業をサボるものだから、だんだんと学力が低下していったし、今度はそれを補うためにますます家での学習時間が増大、そしてなかなか朝起きられない、という悪循環、負のスパイラルに陥っていった。

2年、3年とついてしまった悪習慣のために、一時期は「退学して大検で」ともマジで考えてはみた。
しかし、それを実行しようとすれば、大学入試で選択しない科目(物理や生物、日本史や地理)にも手を広げなければならず、結局、より負担の少ない方法を選ぶとすれば、高校に通い続けることだろう、と考えて思い直した。3年生のときは、2学期終了時点で、もうあと1回の遅刻も許されないという、いってみればリーチだった。
3学期の授業なんて殆どない。共通一次が終わってすぐ「自主学習」に入ったから、言ってみれば1ヶ月だけだ。さすがにこの一月だけは皆勤だった。で、なんとか3年で卒業した。

体育の授業のサボリにはやたら厳しい学校で、特に水泳はそうだった。1回さぼると、25m×12本、これが1回あたりのノルマだった。夏休み前の、つまり試験休みか、その期間中に休んだ回数のノルマをこなさないと単位がなかった。このときの、いわば「救済措置」ともいえる補習で、なぜか水泳が好きになった。
当時はまだクロールしかろくにできなかったが、周囲の同級生たちは私が運動が不得手と知っているものだから、「やったら速いなあ!!」と驚いていたためだろう。前を泳ぐ同級生たちにいつもぶつかってしまってたな……。
おいおい、ちゃんと加減せえよ。

高校生の頃から、父と仲が悪くなる。結局きちんと和解できないままにあの世へと旅立ってしまうのだったが、このことは今でも後悔している、というか、悔やんでも悔やみきれない……。





テーマ:わたしの心 - ジャンル:心と身体

皆さまご無事で……

多くの職場で、いわゆる仕事納めも終わって、年末年始休暇に入っている方々が多いと思います。

空、海、陸を多くの人々が帰省や旅行で移動される時期ですね。

お気をつけて、どうかよいお年をお迎え下さいね。

*(車)**(新幹線)**(温泉)**(バス)**(地球)**(飛行機)**(フランス)**(ブラジル)**(韓国)*

昨夜は……

そうそう、26日から妹が帰省しています。
向うの集まりに合わせて戻らなくちゃいけないんで、元日に戻るとのことです。

例年なら旦那つまり義弟より早いんですけど、今年は弟君は大阪には来ません。
彼は年末のギリギリまで、お仕事多忙だそうです。

で、昨夜妹と近くにあるちょっと高級な?廻転寿司*(ウニ)**(トロ)**(ビール)*に行きました。
私は……12皿だったかな。
世間ではお給料もボーナスも出た後だったせいか、ちょっと高いめのお皿が沢山回っていました。
いつもよりも、お寿司の美味しさを味わいたいがために、ビール*(ビール)*は控えめにしたのですが、帰宅してからお風呂に入って、少しだけ飲んだら……やっぱコックリコ、コックリコ……で、Cafeしようと思ったらもう日付が変わっていましたかね……。

気をつけます*(汗)*