先日、この「幸福の木」のことについて書いた。花の香りの強さにまいってしまった、と。そしてその後日談も書いた。摘まれてしまった、と。

この花の香り、簡単には形容しがたいのだが、植物なので当然植物的な香りではある(当たり前やな)。動物的な臭いはしない。イメージとしては、高温多湿の中で生い茂っていて、新陳代謝を活発に行なっている精力的な香り、湿っていて、蒸し暑い感じにさせる、濃密な重たい香り……ううむ、難しい。花の香りには違いないのだが…。

ただこの香りに、多くの大阪人が若干の精神的負担を強いられていたのは事実だろう。皆慣れていないだろうから。

しかし、この香りが全く気にならない人もいるし、心地よさを感ずる人もいるはずだ。食物にいろいろな好みがあるのと同じく、香りにもいろいろと好みもある。

以前、自分の生命に危険を及ぼす食物は、いやな味、またはいやな香りを感じて、人間は避けてきた、と書いた。どうもそれら以外の要素も、現代社会では幅を利かせているのではなかろうか。

それは、慣れ、同質か否か、ということだ。

多くの人がどれだけ「オイシイ*(うるうる)*」と思っても、それに全く慣れていない人なら必ずしもそう思うとも限らないし、香りまた然り。

問題は、慣れないもの、異質なもの、にどう立ち向かうか、ということだと思う。

例えば全国の学校で問題になった「いじめ自殺」、今と昔では若干状況が違うのだろうが、自分達と少し違う、あるいは少し変わっている、そういったことから「やっちゃえ!」となることも多いのではなかろうか。

多種多様な個性、さまざまな「ひとりひとり」の違いを認める(勿論、誰でも社会の中で生きていける一定の基礎を養うことは非常に大切なことだが)、そういうことも教育現場には求められているはずだ。

文科相の発言を問題視したのは、かつての「単一民族国家」という言葉こそ使わなかったものの、「極めて同質な国」という言葉からは、異質なものを排除したいという気持ちを読んでしまったためだ。

これじゃあいじめはなくなんないよ。
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