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前述のような高校生時代を送って、結局共通一次も大失敗してしまい、大学受験浪人をすることになる。あまり裕福とはいえない家庭だったので、予備校には行かなかった。

高校3年間とこの1年間で、やれ模擬試験だ、参考書だと、なんのかんのいってそこそこ費用はかかったが、予備校に行くのに比べると相当安上がりで済んだ。それに、なにより自分の思い通りにスケジュールを組み立てられる気楽さも存分に味わうことになる。

先に述べた、学校を超えた集まりは浪人生のときにも参加していて、そこではみんなで生活スタイルを報告しあい、批評しあうという時間があった。
ぶっちゃけ、勉強時間がどれくらいなのか、ということなんだが。
予備校に通っている友人たちは、そこの講義も含めて大体週60~80、最高は100時間というのがいた。一方、私を含む少数の宅浪(自宅浪人)組は週50時間もなかなかいかない。因みに私は共通一次直前でようやく80時間のペースにのせたが、それまで大体40時間がアベレージだった。

それだけの努力で到底目標突破なんかは出来るはずもなく、大幅に志望校のランクを下げざるを得なかった。

その年とその前年、つまり私の現役と一浪の2年間は、国公立大学は1つしか受験できなかった。まれに二次募集というのもあったが、世間の趨勢ではなかった。
2年も3年も……それ以上の長期間、親に負担をかけることはできないので、受験先は合格安全圏に変更せざるを得なかった。

勉強時間は少なかったけれども、その中でふと思ったことは……それは、学問には色々な分野があるけれども、結局のところ、この「世界、森羅万象」というものを説明している、という点においては根っこのところで共通しているのではないか、ということだった。つまりそれらは説明する言語が数学であったり物理学や地学であったり歴史学であるだけの話で、言い表そうとしているその対象というべきものは……同じなんじゃないかな、なんて思ったりしていた。

1年年上の、つまり2浪していた先輩が、成人式の帰りに飲酒運転の車と正面衝突し、あえなくこの世を去った。
山車(だんじり)と、祭りが好きで、スキーも好きで、あんまり勉強ははかどっていなかったけれども、人あたりのよさと優しさ、柔和な性格な方で、告別式には多くの友、先輩、後輩が最後のお別れを告げにいらしていた……。

悲しんでいる暇なんかなく、さっさと二次試験向けの勉強にエネルギーは振り向けられた。

その大学の数学では毎年、漸化式が必ず出題されることから、一次後の1ヶ月はほぼ数列全般の学習に充てられた。英語は殆どといっていいほど見向きもしなかった。

ヤマを張った数列と漸化式の問題も難なくクリアして、合格圏に入っているのはずとの実感を持ちつつ帰路に着いたはいいが、解答の最後の最後で、等差数列と等比数列の公式をケアレスミスして取り違えてしまうという、呆れるようなおっちょこちょいをやらかしてしまう。

私は幼少期からおっちょこちょいだったが、これがそんな場面でも発揮されるとは思ってもみなかった。

本来は真面目で内気な方で、決して主観的にはいい加減でもチャランポランでもないのだが、注意力散漫とか早合点、おっちょこちょいな面があり、結構「詰めが甘い」「ちゃらんぽらん」と人からは思われているふしもある。

しかしなんとか無事進学することができ、春から大学生となった。
入学式の日は、4月で既に桜も満開だというのに、みぞれ模様……。夏物のスーツで行ったので、その天候に驚いたし、少し寒く感じた。

当時「大学の講義はサボるもの」というアホな固定概念を持っていた私は、出欠の厳しさに驚き、そして反発すらもしてしまった。そしてそれが元々のサボリ癖と相俟って、講義には殆ど顔を出さなくなってしまった。

本当は真面目に講義に出たいと思っていたのだが、そしてその願いをかなえるべく、大学の近くの学寮に移ったのだが、事態は一向に改善されなかった。

替わりに、というわけではないが、のめりこんだものが、自治会活動とサークル活動で、さらに合間に色んな書物と格闘していた。
そしてそれらが将来の自分への投資であるとか、なんのかんのとわけのわからぬ合理化をして……。

お子様だったんだな、俺。

私が1回生の冬に、父の60歳定期健診での異常が見つかった。
もともと消化器系はあまり丈夫ではなかったので、しょっちゅう胃薬を飲んではいたが、進行性胃癌の末期との診断結果だった。

1回目の手術は私が2回生になる直前の春だった。胃の4/5を切除したが、その時点で既に内臓ほぼ全体に転移が始まっており、余命は長くて1年もない、と聞かされ……ショックだった。
父に本当の病名は告げる勇気がなかった。
母からも秘密にするように言われた。
結局癌であることは告知しないままに他界してしまうのだが、今にして思えばきっと感づいていたと思う。
偽の病名(胃潰瘍)を父は自ら口にすることはなく、概して「病気が……」という、きわめて曖昧な表現でしか言ってなかったから。

この告知を受けたときだった、正式に父と和解したいと感じたのは。

もうあと1年で死んでしまうのなら、今のうちに和解しておかないときっと後悔する……。

だが、どうしてもこちらから言い出せなかった。

自分自身の弱さもあるが、その多くは、それは当時色々とやっていた活動のいずれも重要ポジションにいて、どれも手抜きは許されなかったし、本当は放り出してしまってずっと見舞っていたい欲望に駆られたが、当時の上の方からの説得に応じてしまったからだった。

それらの任務をこなしながら、アルバイトもしながら、忙しい合間を縫って病院に見舞いに駆けつけた。

最初の手術は私の20歳の誕生日に執刀されたが、なんとか順調に行き、見事な回復力を見せ、5月のゴールデンウィークに退院、そして食欲も旺盛になり体重も順調に戻っていたようだった。
秋には、「もうすぐ職場復帰する。」とすら言っていたらしい。

その頃学寮に住んでいた私は、ある日実家にある私物をとりに日帰りで帰省した。そのときに父は随分と喜んでくれて、なんでもすき焼きを作る算段を整えていてくれたらしい。関東人だったから関東風なのだが、それが我が家では定番だった。
父の好意にもかかわらず私はサッサと寮に戻ってしまった。

薄情者で、ワガママだったんだな。

今から思えば、あれが父と食卓を囲む最後のチャンスだった。
それからすき焼きというメニューが私の心の中では大きなトラウマになった。食べられないというのではなしに、そのメニューが出てくるたびに父を思い出すのだ。ああ、あのとき引きとめに応じて、一緒に食卓を囲んでおけばよかったなあ……と。

晩秋の頃から食欲が減退し始め、食べ物が喉を通りにくくなっていった。
殆ど食物を受け付けなくなる前に、医師の診察を受けると、その癌は胃だけではなく、肝臓から胆嚢などにも転移が更に進んで、最早手がつけられない状態だった。
年末に1度だけ手術(胆管のバイパス形成)をしたものの、手遅れでもあったし、口からの栄養摂取もなかなか難しく、どちらかといえば点滴にたよっていたこともあり、相当やせ細っていた。
それでも正月には……餅を焼いてお節を一部とりわけて病院に持っていくと嬉しそうな顔をして、喜んでくれた。
当時は喫煙習慣のなかった私は、いや寧ろ嫌煙者といっても差し支えなかったろう、食物も出来る限り自然のものを求めて色々と探索していたが、懇意にしていた食品店のマスターが薦めてくれたのが、玄米粥と枇杷葉温圧による癌細胞退治だった。
まさに、「溺れるものは藁にもすがる」
手遅れとはわかっていても、なんとかしたい、なんとか助けたいという一心で、色々とやってみたかった。実際には父の同意が得られずに殆どが出来ずじまいだったのだが……。

1週間に1度程度しか見舞うことはできなかったが、行くたびにやせ細って弱っていき、次第に会話する余力も失われつつあり……見舞いに行きたいけれども行きたくない、つまり残された時間を少しでも長く共有したいという思いと、病状の進行を見たくないから行きたくないという相反する2つの思いが同居していた。

結局2度3度と、胆管のバイパス形成手術がなされるものの、いずれも失敗に終わり、ますますやせ細っていった。

いずれも手術のときには病院に行ったが、確か最後の手術の、手術室に入る前の担架の上に乗せられた父の姿を見て、無性に悲しくなった。
こんなに小さくなっちゃった……。
父は当時の人間としては、172cmと長身だったが、担架に元気なく横たわる姿は、痩せ細っているためか、うんと小柄に見えた。
悲しかった。衝撃的な悲しさだった。

2月に入り、大学は試験期間に突入し、なかなか見舞いに行けないものの、気がかりでもあった。

2月13日に見舞いに行ったときには相当弱っており、きわめて短時間しか話せなかった。
病室を出る前に、握手をした。
「男らしい、いい手してる。」
「じゃ、元気で。」

それっきり、父の声を聞くことはできなくなった。

2月21日早朝、実家からの電話で、昏睡状態に陥ったと聞かされた。
殆ど身支度もせずに大慌てで寮を後にした。
私が病院に到着したときには、補助呼吸装置を装着され、会話もできず、時折叫ぶ声とともに身体の一部を動かしてあたかも生への執着を意思表示しているかのように思えた。

この状態が数日から1週間くらい続くかも知れないと感じた私は、とりあえずの生活用具を速攻で取りにいって、また病院に戻ってきた。

病室の、父が横たわっていたベッドは空いていた。

看護士さんに聞くと……霊安室とのことだった。

間に合わなかった。最後を看取ってやることが……できなかった。
母が看取ってくれた。

1988年2月21日午後6時54分。享年61歳。

亡くなって直後は、確かに悲しいことは悲しかったけれど、バタバタしていて悲しいというよりも忙しさの方が迫り来ていた。
でも、しばらくして色んな法要が一通り過ぎると……悲しいのもあるけれども、なんかこう、ぽっかり心に穴が開いたような、心の中を風が吹いていくような、そんな気持ちになった。

それから数年は父の夢を見ることもあったけれど……
最近は……さすがに20年が経過しているせいか、あまりない。

太平洋戦争の末期には、人手不足で代用教員をやったりしてた。その少し後には、江戸崎というところで軍隊の訓練をしていたらしい。

もしも戦争の終結がもう少し遅かったら、あるいは私はひょっとしたらこの世にはいないかもしれない。

とりあえず、今ここに私がこうして存在することは、奇跡か偶然か……それは私も分からない。

生前さんざん困らせ、悩ませもしたけど……ごめん。
しょうもないことで腹を立てたり、冷たくあたったりしたけれども……ごめん。
俺のだらしないところがわかったから、いつも叱ってくれていたんだよね……。

お父さんとお母さんがいてこそ、今俺がいるんだよね……。

ありがとう、お父さん、そしてお母さん。



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