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2008.01.05 震災の頃……
私が赴任したクラスの前担任は病気休暇を取って休職中だった。

クラスの状態については、特に何も聞かされてはいなかった。だからそれほど覚悟もしてもいなかったのだが……相当に荒れたクラス、いわゆる学級崩壊状態だった。それで前担任もヤル気を失くしてしまったようだ。
給食の時間にパンは飛散する、授業45分の間にまともに授業できるのは5分だけ、あとは「ボールを触るな、紙飛行機を飛ばすな、席に就け、立ち歩くな、漫画を読むな、ストーブで半紙を焼くな……。」

この子らをしっかりさせようと思ったら何をしてもいい、そんな思いだった。

ただし手は出すまい、と。

しかしとうとう、あまりに言うことを聞かない子どもたちに対して……またもや手が出てしまった。そのたった一つの過ちで、それまでの努力が水泡に帰したのは言うまでもない。

学年会で「はあ、こんなクラスやと分かってたら来なかったんやけどな……。」何気なく言ったその一言を聞いていた先輩方は「え??なんやそれ??」どうやら、荒れたクラスであることを理解した上で赴任してくれる人を探すよう、PTAでも学校でも学年でも教委には要請していたらしい。それで一気に府教委に対する不信感は強まった。
だがしかし、クラスの実態を正直に打ち明けた上で赴任してくれる人なんていなかったと思う、多分。

まあ、四の五の言っても何一つ始まらない。どこまで立ち直らせることができるか……挑戦してはみたものの、どこまでやってもこれは不可能ではないか、と思い、諦めに似た思いを持った瞬間に緊張の糸もプツンと切れた。

たった半年に満たないが、公教育の教育職を経験してみて、その道は一旦は諦めることになる。というか、もう少し人間的修養が自分には必要との思いで、数年は民間に勤めることを考えた。

しかし教育関連の経験を活用したいとの思いもあり、学習塾や専門学校、その他色々やってはみるが、なかなか首尾よく行かずに転職を繰り返すことになる。

その後、1994年末頃、小さな地震が大阪と兵庫の県境付近、多分猪名川町辺りだったと思うが、頻繁に観測されていた。それが確かクリスマス以降かな、一旦はピタッと止んだ。
そうして、しばらく体感地震もなかったが、……1995年1月17日午前5時46分頃、突然ゴゴゴゴーっという大きな地鳴りが聞こえた。ん?またいつものあれかいな、と思ったらその次の瞬間には激しい揺れが襲った。マッチ箱のような形の建物は倒壊するかと思った。

恐ろしかった。本当に恐ろしかった。

恐怖のあまり、思考力や判断力が停止したのだろう、天井から吊るしている蛍光灯がわっさわっさと揺れるのを私はただ呆然と見詰めていた。

アホやな、さっさと自分の身を守らんかい!!

前年の秋に、本棚の位置を少し入れ替えたおかげで、その棚や書物が倒れこんでくるのは防げたが、もしも模様替えを実行していなかったら……と思うと、なんと偶然なことか、と感じた。

当時未だ携帯電話というものを所持してはいなかったから、慌てて勤務先に電話しようにも全く通じなくなった。ガスと電気はなんとか途絶えることがなかったが、上水道がほどなくして止まった。電話するために公衆電話へ向かったときに見たのは、破裂した水道管から噴水のように出ている水、公衆電話に長い列を作る人々……当時は団地の最上階に住んでおり、下の情報がなかなか入りにくかったのも事実だった。

食器棚も揺れる方向の関係で大きな被害はなく、天井付近の戸棚から一升のヤカンが落下しただけで済んだ。

他、ドライ用の洗剤が棚からこぼれ落ちてカーペットにシミができたくらいで済んだ。
飲用水に困って、最初に徒歩2分の酒屋へ行くと……それどころじゃない、って感じで、床一面に散乱したガラスなどを酒の匂いにむせながらマスターとおかみさんが処理していた。やむなく徒歩5分のスーパーに行くと……あいにく臨時休業。中ではやはり復旧に大わらわ。止むを得ずもう少し足を延ばして、今度は徒歩10分の距離にある珈琲豆の専門店……ここは盲点だった。ミネラルウォーターが売られていた。従業員さんたちはみな徒歩2分程度の所に住んでいたらしく、片付けもおおよそ終了しつつあった。

私の住む北大阪ですら死者が出てしまったが、阪神間から淡路島にかけては周知の通り甚大な被害が出た。後に大阪最南端に住む同僚が言ってたのは、対岸の空が夜になっても真っ赤だったと。
確かにあれは凄まじく燃えていた。ヘリでの映像を見ると、あたかも太平洋戦争時の空襲に遭って、街が壊滅したかのようだった。

この何もかもなくなったに近い神戸の街、震災の被害に遭った街に足繁く通い、被災者の支援のために一人の作家が尽力された。そう、小田実氏だった。昨年8月頃の日記でも書いたが、このときに私の彼に対する認識は大きく変わった。

この震災により人的にも経済的にも大きな被害を受けた関西は、今でも少しはおそらくこの余波が続いているのだろう、景気回復が若干遅い。
そういう意味では震災はまだ終わってはいない。

この年の秋、入退院を繰り返していた母方の祖母が亡くなった。
父方の祖母はとっくに他界しており、私からすれば「おばあちゃん」と呼べる人はこの祖母だけだった。

葬儀に駆けつけた親戚、従兄弟たちと話をするのも本当に久方ぶりだったが、彼ら彼女らの住む瀬戸内海に面した街々でもその震動は相当伝わっていたらしい。電話線が通じてから何回か電話をもらったのだが。

この祖母には子どものときには随分と可愛がってもらった。
帰省すると、ここは海の幸に恵まれたところだったので、ふんだんに瀬戸内の味覚を楽しんだ。赤い卵巣を持った子持ちシャコ、ツナシの酢漬け、ママカリの祭り寿司、焼き穴子、牡蠣フライ、ときには焼きハマグリに活き車海老の塩焼き、……。

近くに潮干狩りのできる海岸もあるので、よくアサリを獲りにいった。十分に砂を吐かせてから貝汁にするんだけれど、それでもときどき碗底に砂が沈む。で、たまにアサリの中に小さなカニとかがいたりする。
メバルの煮付けもよく食卓に上った。あ、そうそう、忘れちゃならないのがイイダコ。小さな蛸の一種なんだけど、卵巣かな、ご飯粒みたいな触感からそう名前がついたんだろう。

幼いときに、杵と臼で餅つきをした。白餅と豆餅と、2種類作ったかな。確かもち米だけよりもうるち米(そこでは「ただ米」と呼んでいた)も混ぜた方が美味しいということで、少しだけ混ぜて作った。

祖母宅の隣に伯父が住んでいて、その伯父がミカン栽培をしていたので、よくミカン狩りにも行ったかな。樹になっているのをもいでその場で食べるとその美味さは格別だった。果汁の鮮烈な味わいに強烈な芳香、ワックスを使っていないから手が粉でピカピカになる心配もなかった。

何だ、食べ物の話しか出てこないぞ!?
こういうのをきっと、食い意地がはっている、って言うんだろな。

あまり帰省しなくなってからも毎年正月明けくらいにはミカンを送ってくれた。庭になっていた柿と、干しエビ、それから豆餅とかも一緒に。
あと、梅漬けも自家製で作っていた。現在スーパーや百貨店で入手できるどの梅漬けよりも確実に美味かった。また麦味噌も作っていたかな。それから梅酒やぶどう酒、いちご酒など、様々な果実酒を作っていたかな。で、ちょくちょく飲んでいた。

おい、子どものころから飲んどったんかい??
それはアカンで!!

珈琲に凝り出してから帰省したときは、近くのスーパーに売っているのが豆ではなく挽いた粉を缶詰にしたものだったので、若干残念だったが、それでも祖母宅で淹れると……大阪で新鮮な豆を挽いて淹れるのよりも数倍美味しい珈琲ができたのには……驚いた。水の力って、本当に凄いなあって思った。

年金生活の合間に、和裁をしていた。しばしば近所の集落の方からも注文があると色々と作っていたらしい。ちなみに妹が成人式に着て行った振袖は祖母の手によるものである。

……色々と祖母には世話になったし、可愛がってももらっていたのに、交通の不便さや忙しさにかまけて墓参もできていない。

たまには行かないとね……。





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