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思ったことを思ったように書きます。

中学生の頃……


中学校に入る頃になって、ようやく異性に対する関心が出てきたりした。
クラスメイトに1人可愛い子がいて、というよりも当時の私の好みのタイプの人がいて、まあ、当然片想いなわけだけれど、好きだった。
その子は2年生になったときのクラス替えで別のクラスになり、その年の2学期を待たずに転校して行った。

2年生になって、新しい校舎に移って、1つ上の先輩とも同じ校舎、従って同じ下足室(昇降口、とも言うのかな)を使うようになり、以前の片想いの方と違うものの好みのタイプの先輩がいた。
結局何にも話さないまま終わった。

3年生になると、今度は同じ学年の、2年のときのクラスメイトのことが気になりだした。結局これもまた言い出すこともなく終わるのだが。

中3の頃、いわゆる「第2の誕生」なるものを経験した。いわゆる性的なことに対する興味や関心が一層拡大していったのは、射精というものを初めて経験してからだったかな。
しかしこの「射精したい」という気持ちは……その後数年間苦しめられるものになる。
人間に性欲なんてものはなくなってしまえ!!とすら当時は思った。色々なことが手につかないじゃないか、どっか行ってくれ!!なんて思っていた。ときどき、冗談抜きで、切ってしまおうか、とすら思った。
恋愛と性的欲求とを直ぐに結びつけてしか考えられなくなって、つまり当時は著しく混乱して、つねにイライラしていた。

そんな状況の中で、恋は勉強の邪魔、性欲も勉強の邪魔、と頑なに考えていた私は、勉強以外で何か情熱を注げるものに没頭することでそれを忘れようとした。それがギターであり、部活の卓球であった。

帰宅してから宿題だけはやっていたけれども、それ以外の勉強らしい勉強はあまりせずに、まあ百科事典でも眺めていればそれらしく見えるな、なんて思っていたから、これは高学年のころからの格好の逃げ場だった。比較的早い時間帯はたっぷりギターの練習ができた。夢中になって練習をしていた。

その頃は、確かアコースティックなサウンドが流行っていた時期だったかな、多分。ザ・ベストテンというテレビ番組で、西城秀樹のY・M・C・Aがずっと上位を占めていた時期もあるが、アリスとかさだまさし、松山千春、中島みゆき、南こうせつ、といった顔ぶれが頻繁に上位ランク入りしていた。また、彼らはテレビになかなか出たがらないのも特徴だった。

そんな中で楽譜とタブ譜をたよりに沢山の曲目を練習した。1つできるとまた1つ、そうやって次々にマスターしていった。

あんまり勉強とかしないものだから、成績は当然下がっていった。特に数学は弱くなっていった。英語だけは3年間を通じて得意なままだったが、数学にいたっては殆ど理解できてはいなかったと思う。
思えばその芽は小6の頃にあったのかも知れない。分数を含んだ複雑な乗法と除法で、ひっくり返して掛ける、なんだ??意味わからんし!!……だった。
まだ中1のときはさほどひどくはなかったが、2年のときに連立方程式と一次関数が出てきて、さらにグラフと方程式の関係になるとサッパリお手上げ状態、この頃ようやく初めてテストで良い点が取れない子の気持ちがなんとなくではあるけれども理解できてきたと思う。数学は常に40点台、平均以下だった。

あたかも連動するかのように、理科第1分野(物理・化学)が分からなくなっていった。電気とか電流、電気分解とか、その辺り。それが今度は技術の成績にも影響してきた。エンジンとかの同じような分野もあるから。

小学校のときから絵が好きだったからか、美術の成績は低下しなかったものの、保健体育はやはり不得意のままだった。

成績が下がっても、呑気だったのだろう、もっと予習とか復習とかしようとも思わなかったし、別に点数悪くたってなんとかなるわい、と思っていた。テストで良い点を取ることの意味が全く分からない状態だったし、比熱の公式なんぞ覚えても、あるいは因数分解なんかできても実社会のどこで役立つんや??なんて反発心すら持っていた。

しかしその一方で、校則だけはきちんと守るというのをポリシーにしていた。見た目で内申書の評価が下がってももったいないしな、と思っていた。猫かぶりしていたのかな。

中2のときに、9月上旬の水泳大会の希望種目にジャンケンで負け続けて、最もハードな50m自由形に出ることになった。当時はまだノーブレスで15mをクロールで進むのがやっとだった。
幸いなことに夏休みをはさんで練習する時間があった。学校の自由水泳の時間に、最低限何回か通うのが体育の宿題だったが、それを大幅に上回り10数回つまり通える条件のあるときは全部通って、なんとか息継ぎができて50mを泳げるようになった。
おそらくこのころだろう、不得意を少しづつでも克服する楽しさに目覚めたのは。

テレビ番組で大きく私のこれまでに影響したものといえば、「3年B組金八先生」?、これは直江喜一や沖田浩之の出演したシリーズだ。
「俺は腐ったミカンなんかじゃねえ!!」と聞けば思い出す方も多いだろう。
今でもあの回のシーン……荒谷2中の放送室で校長を軟禁し、加藤と松浦の粘り強くかつ心を打つ説得についに全校生徒に対してお詫びをする校長、ようやく闘いを終えて出て来てみんなの「カトウ」コール、しかしその行く手を待っていたのはなんと警察だった。慌てて逃げ惑う「主犯格」の加藤、松浦、荒谷2中の番長……、しかしその甲斐むなしく彼ら2人の手には手錠がはめられる。スローモーションで流れる映像のBGMは中島みゆきの「世情」……警察に連行されていく加藤優と松浦悟、泣き喚きながら追いすがる加藤の母……。
そして警察署での校長と金八、PTA会長らの署員に対する説得、そこで校長は最後の切り札を出す。それはこの件を担当した署員の中学時代の小さな悪しき行いを校長が見て見ぬ振りをしたことを持ってきたのだ。

このドラマに感化され、教職に就くことを強く決意したのだった。中2のときだな。(これは後に実際に就いてみて大きな挫折を味わうことになる。)

で、教職に就くためには大学に行かなくちゃ免許が取れない、そのためにはある程度の進学実績のある高校の方がいいだろう、となるともっと良い点数をとらなければいけないな、と気付いた。中3の夏休みかな。

遅すぎるって!!

もう内申点は半分が終わっていた。テスト4回のうち2回が終わっていたからだ。
それから必死に挽回しようと猛烈に頑張ったのだが、なぜか努力すればするほど点数というか順位はどんどん下がっていき、大きな1つの挫折を味わうことになった。

新設して2年目の中学校だったが、1期生は公立高校に全員合格したので2期生もその実績を崩したくなかったのだろう、私たちの学年でもかなり安全圏を担任の先生からは薦められ、結局薦められたところより1つ上の学校を受験した。また、行く気は全く無かったが併願で私立高校も受けた。

確か高校受験が最大の関心事だった時期に、丁度数学で円の単元があり、クラスメイトの1人が授業中に円周率をドンドン書き出して(おいおい、授業に集中しろよ)、それはゆうに1,000桁を越えた。
その日から私のクラスでは円周率の暗記競争のようなゲームが始まった。

おいおい、本当に、そんなことしてていいのかよ???

最初は私を含む数人しかそのお馬鹿なゲームの輪には参加していなかったが、やがてどんどんその数は膨らみ、しまいにはそれを冷ややかに見ていた女性陣にも飛び火し、またクラスをまたいで流行るにいたり、学年ではちょっとしたブームになってしまった。勿論最後まで冷静な生徒は冷静だったが、なにせ人生初の受験という非常に精神的負荷のかかる時期である。心のバランスを崩すもの多数だったのだろう。

今でも円という図形に美を見出し、調和を見出し、平和を感じ、IDもHNも円周率から引いてきているのは当時のこの「暗記競争」というものがあったからではないかと思っている。暗記、というのは大嫌いだったが、なぜかこのゲームだけは好き好んで参加した。

嫌いだった暗記でも、唯一感謝しているものがある。中3になってすぐのころの公民の授業で、日本国憲法の前文を暗記せよというミッションが下った。当時は「暗記」というだけでアレルギーを感じていたのだが、これはその後の人生の中でかなり大きな精神的支柱になっている。



高学年以降……


絵画に興味を抱き始めてしばらくして、少しづつ抽象画に興味が行った時期がある。極めて写実的な、つまり金属の光沢がそのまま、あるいは陰影のボカシなどがそのまま描かれている作品に注目するようになった。
写真みたいに書けないかな、と思って何度か練習したのが鉛筆デッサンによるボカシ。落書きなどでもそんなことをしていたから、当然みんなは注目していた。

そんな風に……絵を描くのは好きだったので、小4~小6までの3年間、絵画教室に通っていた。2年間はクレパスと絵の具で、最後の1年だけは油絵で。
こども二科展に2回、佳作で入賞したが、どちらかと言えば会心の作といえない作品が入賞したので(会心の作はなぜか別の児童の名前になっていた)、驚きと不満が残った。
油絵になってからの出展はなかった。

絵画教室や学校の授業以外で、専ら好きで描く絵は、……鉛筆デッサンの習作以外だと、富士山とか、未来都市……そうそう、未来の生活とか、UFOとか、地球外生命体、四次元空間、ブラックホール、そんなのに憧れていた時期もあったな。

でも未来都市っていっても……予想していた年月が経ちつつあるけれども、当時予想していたほど例えば建築物の姿が激変しているわけでもないし、乗り物が発達しているとも思えない。通信網と通信手段が想像以上に発達しているかな。

どちらかと言えば現実より空想が好きだったせいか、学校に行くのは好きじゃなかった。
でも、小学校6年間は風邪と伝染病(風疹、流感)と学級閉鎖以外は休まなかったし、中学校3年間も無遅刻・無欠席で通した。

学校を休みたくて仕方なかったから、たまの社会見学に行った工場で、そこは週休2日制であると工場長さんから説明を聞いて、羨ましく思った。工場長さんは「でも学校は土曜日休みにはならないと思います。」っておっしゃってたけど……。ん、これは低学年の頃だったかな。

そんな中で、小5の年末に祖父が肺炎をこじらせて入院したとの知らせが入った。「見舞いとかで学校が休めるぞ。」と思ったけれど、実際にはその知らせが入って数日後、冬休みに入ってしばらくしてから見舞いに行き、その翌朝亡くなった。
祖父のことは実はあまり覚えていない。
帰省した折にはよくマンガ雑誌を買ってくれていたのだが……物心ついたときには入退院を繰り返しており、ごくたまに会うとすれば病院の面会室だった。口癖で今でも耳に残っているのは「早う小便して寝ろ。」あと、見舞いに行ったときに当時私の好物だったキャラメルとかヌガーを持っていくと、入れ歯が外れるから食べられないと返答を頂いたことくらいか……。

運動があまり得意でなかった私は、自転車に乗れるようになったのも遅かった。小5の夏だった。当時小1だった妹に1日だけ先を越された。
あ~~、情けねぇ……。
水泳も先に書いた事情で不得手だったが、小6のときに「早めに水泳の許可証を出してくれる耳鼻科がある。」と聞いて、かかりつけの耳鼻科を変更した。あっと言う間に出してくれた。そしてようやく、学校のプールにデビューできた。

あまりにも苦手なままだと不憫だと思った親は、水泳の夏季集中講座に入れてくれた。そこで初めて味わった感覚……水に浮くということ、水上を進むということ……ノビタ君じゃないけれど、一生カナヅチを通すんだろうと諦めていた自分にとって、俺でも泳ぐことが出来るんじゃないか、と思って、少し不思議な気持ちになった。

丁度このころから、色々と手を動かしてする、いわゆる「モノづくり」に対する興味が拡大していったのかもしれない。小5で「家庭科」が始まり、裁縫や調理……結構好きだった。調理実習で教わったものは大抵その後に我が家の食卓に登場した。失敗作もときどきあったけど……。今でもときどき厨房に立ったり、たまには縫い物をする基本はこのときに習ったものだ。中学・高校時代は今と違って男子に家庭科はなかったからね。

プラモデルに熱中したのもこの頃だ。当時スーパーカーのブームで、テレビ番組とかでも「スーパーカークイズ」なんてのがあった。
車の名前も色々覚えたかな、ランボルギーニ・カウンタックとか、ミウラ、イオタ、フェラーリ、デ・トマソ、ランチア、ロータス、ポルシェ……など。

少しづつ歌が好きになったのもこの頃だ。今は歌が大好きだ。歌うのが好きだ。カラオケもよく行くし、いっときGyaoに投稿しようかと思ったこともある。
子どものときには歌が苦手……というよりも、音程が上手くとれなかった。ジャイアン並み。低学年のときには、あんまり歌が下手なので、音感育成のためにエレクトーンを親は買い与えてくれて、ヤマハエレクトーン教室にも通わせてくれた。クラスメイトの妹が後から入ってきたのに、課題をこなすのが早くて先を越されたことがショックで、臍を曲げてすぐに辞めてしまったのだが。
因みに鍵盤は今はあまり出来ない。バイエルのうちの簡単な何曲かと、小学校の共通教材の弾きやすいのが何曲かだろう。あとは定番「猫踏んじゃった」。

小5か小6の頃、なぜかジャイアン並みの音程が急に私から消えた。
そして、家にあったクラシックギターでフォークソングの伴奏を弾いてみた。

Amはこう、Dmはこうで、アルペジオって分散和音だな、お?音が出るじゃん!!で、歌は……
♪きょ~ねんのあ~なたの……あれあれあれ?……
こらこら、伴奏と同じラミラドラミの音階とちゃうねんって!!
ミ~レドミ~レドファ~ミレレ、だろが!!……。

そして日々の興味の主体が弾き語りの練習に移っていった。


小学生時代……


小学校に入学したときに、違う幼稚園から来た子も何人かいた。
♪1年生になったら~
の歌の通り、1学年ちょうど100人だった。
幼少期から相変わらずの夜型生活だったせいか、しばしば居眠りをしていたようだ。私自身で覚えているのはたった1回だが……。
真っ暗闇の中に突然担任の先生の叱責が飛んだ。
「○○○○君、眠いんか!!眠いんやったら家に帰って寝なさい!!」
本当にランドセルに勉強道具を詰めて帰宅しようとしていたように思う。
幼稚園に行くときもときどき、歩いたまま寝てたらしい。
家庭訪問の際に担任の先生が母に相談なさったようだ。

植物や岩石に対する興味や関心は消えることなく持続していた。でも、理科の中でも(当時は「生活科」とは言わなかった)物理や力学的なことはあんまり好きじゃなかった。
1年生でアサガオを、2年生でヒマワリを、3年生でヘチマを、4年生でサツマイモを栽培するのは楽しかった。
当時住んでいた集合住宅の下の空き地を不法占拠?して我が家の庭に改造していたのも覚えている。そこにはアサガオ、ヒマワリ、グラジオラス、カンナ、アイリス、ハボタン、クロマツ、アカマツ、フクジュソウ、ヘチマ、キンセンカ、マリーゴールド、ホウセンカ、オシロイバナ、ツバキ、サザンカ……そんなのを栽培していたかな。

野草を摘みにも行った。春頃にはセリとかヨモギ、ツクシ、母の実家の近くの山にはワラビやゼンマイ……。

母の実家は瀬戸内に面した小さな町にある。神戸の生まれだが、空襲の被害を避けるために一家で疎開して、その先にそのまま落ち着いた。

そこは漁港に近いだけあって、海の幸には恵まれており、焼き穴子やシャコ、サヨリ、カキ、その美味さは格別だった。
ときどき小さなサワガニが部屋に上がりこんできたりした。
アサリの多い海岸でよく潮干狩りをした。
貝汁を作ると、どんなに砂を吐かせても最後に沈殿するんだよな、砂が。
で、たまにアサリの中に小さなサワガニが入っていたりする。
空気の清浄さは大阪とは比較にならない。全天でおおよそ30しか見えない星が、母の実家では……あたかも星と星の間を漆黒が埋めている、というほど圧巻だった。

先に、イヌが苦手と書いたが、実は猫も当時は不得手だった。
そこではいつも猫がいたのだが、私はなかなか馴染めなかった。
当時はその家の台所は母屋から離れており、ひとりで行くのには若干の勇気が必要だった。
勇気といえば、トイレも水洗ではなかったので、若干恐くて、特にうんこをするときは、和風便座をまたがなければいけない恐怖があった。そんなわけで、母の実家に帰省したときは大抵うんこを我慢する悪癖が着いた。
そんな私の様子を見るに見かねてか、祖母はひとつの助言をくれた。いわゆる「いかり豆」フライドビーンズとも言うが、要はソラマメの素揚げに塩を振ったもの。それを持ってきて、「これ食べるとうんこが良く出るんで。」私は張り切って食べた。事件は当日深夜に起こった。
その日の夜、海水浴に行って大波にさらわれる夢で目が覚めた。

ん?なんか掛け布団が冷たいぞ……。

あ~~~っ!!おねしょしてるじゃん(><)
え??何だ??なんか……尻尾みたいな変な感触がお尻に……。
が~~~~ん!!!うんこだよ(TT)……。大きいのが2本も……。

……その珍事件以来、我が家では「いかり豆」の呼称が「うんこ豆」に変わった。しかしそれで恥をかいたのは妹だった。

遠足に行く前に、友達とおやつを買いに行って、「いかり豆」を見たときに思わず言ってしまったらしい……。そのときに初めて正しい呼び方を知ったんだって。俺って罪な奴だなあ(笑)。

低学年のときは、勉強が好きだったか嫌いだったか……入学直後から嫌いだったように思う。その理由は今でもわからない。強いて言うなら好きだったのは理科の植物と岩石、図工くらいかな。
勉強が嫌いなくせに、なぜか得意だったので、いつもテストなどで悪い点を取る子の気持ちがわからなかった。というよりも、どうしたらそんな点数が取れるのか、それ自体が謎だった。
ただ、今に通じているといえば、……基本をあまり重視せずに、どちらかと言えば人より先に行きたがる習性があったようだ。

理科の磁石の時間に、学校の砂場で磁石を動かして、砂鉄を集める、という実験があった。だがそのときに、「砂場の砂は川の砂で海の砂ではないから砂鉄は少ないよ」なんてことを言ってしまった。
そのときの担任の先生の困惑された表情は良く覚えている。
磁力線を見る観察の時間は、磁石をビニール袋に入れて砂鉄を撒いた方が後始末が簡単と思っていたが、「そんなことをしなさいとは言ってない。」と袋が取り外された。

板書をノートに写すときに、担任の先生は、スペースがないために一旦板書を消してから新たな内容を書き出されたのだが、そのときに、私の消しゴムが先生の黒板拭きに連動してノートの内容を消してしまった。

何やってんだ?俺。

運動神経は鈍かったので体育は嫌いだった。水泳は苦手だった。いつも春先の耳鼻科や眼科健診でアレルギーで引っかかっていたため、夏が終わる頃までかかっても完治せず、プールの許可が下りなかった。そのために5年生になるまでずっとカナヅチのまんまだった。

図工は得意だったかな。絵の時間ではいつも模範としてみんなの前に提示されていた。

相変わらず先生の指示に従わない児童だったんだな。なんだか注意力散漫で、早合点しがち、ちょっとふざけたような面があったんだろうな。
だから団体行動とかが嫌いで苦手で仕方なかった。人のペースに合わせるということが苦手だったのかもしれない。だから、というわけではないが、遠足とか社会見学、運動会、これらは欠席しがちだった。

小2のときに妹が保育園の年少組に入園した。母が働きに出たためだ。
ときどきは夕方迎えに行った。
最初のお迎えのときは、該当クラスの教室を覗いてみてもそこにいなかったので、そのまま帰宅。「いなかったよ。」おいおい、いないはずはないだろ。結論から言えば、お迎えが遅いめの園児だけ別室に集められていたのだった。まあ、なんと視野の狭い小学生だったんだろう。
翌日は、汚名挽回?名誉回復?とばかりに、元気一杯行ったものの、通常なら往復で徒歩20分で済むはずが1時間近く帰宅せず……母は心配して迎えにきたのだが、実は私がその隣の教室に着いたまさにそのときに、「オバQ(カラー版)」が始まってしまって……私はつまり園児と一緒にそれを視たくなってしまい、最後まで視てしまった。迎えに行ったというより、テレビ見に行ったようなもんだな。
さすがにそれ以降はアホなこともせずにお迎えを全うできた。

中学年になり、クラス替えがあった。本来行くべきクラスに入らずに、お呼びでないクラスに間違って入ってしまい、そのまま2年間過ごすことになった。正直この2年間のことはあんまり覚えていない。担任の先生が変わったことにより、色々なクラス運営の方法も変わり、また、各教科の指導方法も当然違うために若干戸惑いもあった。

給食の時間が嫌いだったのは、入学直後に始まった。
幼稚園時代は普通に飲めたのに、なぜか給食の牛乳を飲むともどしてしまうようになった。理由はわからない。が、それをきっかけとして、給食中にもどすというのが流行ってしまい、ますます給食の時間が嫌になり、ミルクなしはいつものことだが、おかずもあんまり取らないようにしていた。今も比較的小柄なのは当時の偏食によるものかもしれない。

生まれて初めて社会のテストで55点というひどい点数を取ってしまったが、なぜか復習しようともしなかったし、予習もしようともしなかった。
この頃から、植物や岩石よりも絵画に対する興味の方が勝ってくる。
ゴッホ、ゴーギャン、ルノワール、クレー、ダリ、エルンスト、シャガール、ピカソ……。
それと関連してか「画家になる!!」なんてことを公言していたようだ。

洋画をただ楽しんでいても、中には当然裸婦の絵もあり、それらを含めて見入っている様子に級友たちは何か誤解をしたようで「むっつりスケベ」なんて思ってたらしい。

高学年になり、今度は間違ったクラスには行かないぞ、と注意していただけあって、クラス替えのときの聞き間違いはなかった。
その2年間受け持って下さった先生は、私にとっては初めての男性の担任、しかも校長・教頭といった「管理職」と同年代のご年配の方だった。

厳しい、けれども優しい。
そんな指導方針に甚く感動し、将来は教職を目指すことを決意したのもこのときだった。
また、給食の時間にミルクを含めてきちんと全種類を摂取するようになったのもこの頃だった。
また、この頃からいわゆる「目立ちたい」というおかしな欲求が出てきた。授業中は、本当はわかっているくせにわざと間違えたり、奇妙キテレツな答をわざと言ってウケを狙ってみたり……。でもそれは、担任の先生の適切なご指導により早期にその芽を摘まれた。
やがて別の形で具体化されてしまうのだが……。

生い立ちなど……

私は今も生きている。これからも……いつまでかは分からないけれど、生きていることだろう。

これまでの半生、約41年間だけれども、ここ10年くらいは色々と昔のことを想い出すことも多くなってきた。齢を取った証拠だよ、などと外野からの声も聞こえるのだが、実は決してそういうわけではない。

社会生活に、というよりも社会人生活に難があり、勤めた先もなかなか長続きしなかったり、対人関係も上手く築けなかったり、ここ数年……10年近くか、はひどかったので、それまでの生き方を洗い直し、見直し、自分自身を見つめ直してみたこともあったからだろう。

でもまた、ここ最近私の気持ちの中に大きな変化が起こり、このままでは駄目だ、もっともっと上を向いて、前を向いて生きていけるはず、と考えるにいたった。

人として、人間として生きることに与えられた時間は人によって違う。

でもそれは、永遠に、限りなく続く……時間という座標軸、その流れの中ではほんの一瞬に過ぎない。でもそれはその人生を生きたまさに当人にとってはそれが100%の時間なのだ。
一瞬なんかじゃない。
それに、たった1度きりだ。やり直しは利かない。
ならば精一杯生きよう、そんな思いを強くするにいたった。

あるいはそれは、これまでの記憶を再生することから始まるのかも知れない、とも思った。

一番古い記憶、これも人によって何歳頃のものかは異なる。
胎児のときのことを覚えている人もいるだろうし、小学校に入るころからの人もいるだろう。

私が何にも頼らずに思い出せる最古の記憶は、3歳になったばかりのことだ。
妹の誕生、という出来事だった。
母の入院先まで、今は亡き父の背中におんぶされて連れて行ってもらった。当時はまだあまり今ほど自然破壊が進んでおらず、蛍の飛び交う光が美しかったのも覚えている。また、ジージー虫が鳴く声も耳に残っている。

妹の産まれた前日からかな、母方の叔父が、今は遠方に住んでいるが、当時は近所に住んでいたので、何かと世話をしに来てくれた。また、今は亡き祖母も遠路はるばる駆けつけて来てくれていた。

おそらくそんな非日常的な光景に興奮したのか緊張したのか、おしっこしたいくせにちっともトイレに行こうとしないでずっと我慢していて、しかも部屋中をグルグル走り回っていたらしい。
何やってんだ、近所迷惑だぞ、おい。
それでもどうにもこうにも、膀胱の限界を超えたようで……トイレに行こうとしたものの間に合わず、その一歩手前でズボンを下ろして食器棚の側面めがけて立ちションした。
だったらもっと早くに行っとけよ、だな。

「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもんだ。
今も夜型人間みたいなもんだけれど、幼少期からどうも宵っ張りの朝寝坊だったらしい。
多くの子どもが文字を覚える順番は、まずひらがなが読めることからスタートするものだろうが、私の場合は「終」という漢字を真っ先に読み出したらしい。深夜のテレビ番組で「女三四郎」という連ドラがあって、いつもそのエンディングまで視ていたそうだ。勿論子ども向けのアニメや特撮なんかも沢山視ていたけどね。

画像BBSに、大阪万博の展覧会に行ったと書いたが、大阪万博のその当時3歳。まだ自立歩行のできない妹を父や母が乳母車に乗せたり抱きかかえたりして何回か通った。関東に住む親戚が入れ替わり立ち替わり泊まりに来た。オレンジ色の建物に入るのに相当な行列ができていた覚えがある。

妹ができてすぐは、テレビも白黒だったが直ぐにカラーテレビに買い換えたかな。白黒のが壊れたためか何故なのか、理由は知らない。

兄になった私は一丁前に兄貴ぶってみたい一心で、ちょいと妹をおんぶしてあげよう、と思った。
そんな大人の真似、よせばいいのに。
よっこらしょ!!っとおぶった瞬間、非力な4歳児の私はおんぶなんかできるわけもなく、妹の体はそのまま宙を舞った。私の上を前方にくるりと半回転、丁度柔道の投げ技が「一本!」決まった瞬間みたいだった。

で……あまりのショックのためだろう、その直後のことを私は覚えていないが、妹は壁に頭を下にした姿勢ででケロッとしていて、投げた当事者の私の方が座ったまま大声で泣き喚いていたそうだ。実に不思議な光景だ。

泣き喚いていた、といえばもう1つ覚えているのは、父が出張か何かで遠方に行くときに「飛行機で会社に行こうかな」と言った直後、「嫌だぁ、死んじゃうよ~~~!!」って言ったと思う(笑)。余程大きな飛行機事故でもあったのか、はたまたハイジャック事件の報道を勘違いして受け止めたのかはわからないけれど。
その当時のトラウマか、今でも飛行機にすすんで乗りたいとは思わない。したがって海外旅行にも行こうと思わない。国内でも陸路と海路の移動しかしたことがない。

幼少期のトラウマ、といえば……実は私は犬が苦手なのだ。
噛まれた覚えはない。
当時狂犬病、というものがマスコミで大きく報道されていて、アニメでも話題になった。
確か「マッハGOGO!!」だったと思うが、狂犬病のイヌに噛まれてもしもヒトが発症すれば、恐水症という途中経過を経て、100%死亡する、と描写されていて、それ以降私の頭の中には「イヌ=噛む=狂犬病=死」というブリッジが出来上がった。つまりイヌという生物を避けるのは自己保存の本能のようになってしまったのだ。
今はほんの少しは改善されているけれども、でも大きいのとか、放し飼いとかを見ると、そっちからは足が自然と遠のくな。

私が通った、その当時の幼稚園は、今のように年少・年中・年長の3年も通うのではなく、就学前1年間だった。
入園する前に、「知らない子と遊ぶのは嫌だ!!」と泣き叫んでいたような記憶がある。もっと早い時期の人見知りはあまりなかったらしいが、どうも4歳ごろ以降から少し人見知りするような傾向は確かにあったと思う。

担任の先生が産休に入って交替されたのは覚えている。
いつも砂場でダムを作って遊んでいたかな……。あとは大きな洗濯糊のようなものに色のついた粉を混ぜて絵を描いた覚えがある。
あ、そうだ、1つだけほめられた思い出は、……2月の節分の時期に、鬼の面を作ったときのこと。別にいい子にしようとかそんな意識はなかったんだけれども、なぜか担任の先生から「○○○くんもやっと先生のいうこと聞いてくれるようになったね!」ってさ。おいおい、つまり1年近く先生の指示に従わない園児だったってことだよな。あんまり覚えていないけれども、困ったチャンだったんだね、きっと。

その頃興味を持っていたものに、植物がある。幼稚園の園庭に、いぼいぼの不思議なウリのようなものがなっていて、その名前を確か園長先生に尋ねると、「レイシコウ」と教えて下さった。帰宅後に植物図鑑で調べてみたくなった私は、「レイシコウ、レイシコウ……。」とつぶやき続けながら帰宅した。
家には子ども用の百科事典や図鑑、あるいは大人用の百科事典もあり、意味が分からないながらも見て楽しむのも好きだった。今は忘れている草や樹木の名前でも当時はよく知っていたんじゃないかな、多分。

どちらかというと、少し独特な子どもだったな、俺。
でやっぱり「三つ子の魂……」、今でも色んな所で必ず「ちょっと変わった方ですね。」って言われる。

小学校入学以降はまた次の機会に。






プロフィール

paix31415

Author:paix31415
2008年秋に発達障害とわかり、以後色々と紆余曲折を経て、自らの障害を受容、肯定し、前向きに生きています。 発達障害のこと以外でも、世の中のこと、社会、平和、政治、家庭、人間関係、趣味や特技などなんでも広く考えたいと思います。

更新はなかなかできないかもしれませんが、徒然なるままに、それらのことを含めてときには恋愛話やエッチな話もアリ!?色々な私感・雑感を書いていきたいと思います。

記事の内容(文章及び画像)を引用や転載される場合は、事前にご一報下さい。

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